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Capcom Bowling 〜 Golden Tee 3D

このようにインクレディブル・テクノロジーズはミッドウェイの血脈に連なっているわけですが、1990年代初頭までは「Qバート」のサウンドを手がけた元ゴットリーブ社のデヴィッド・シール氏も主要メンバーとして活躍していました。設立当初はヴィデオゲームを…

Incredible Technologies

インクレディブル・テクノロジーズは、アタリやミッドウェイが撤退したいま、アメリカにおける最古参かつ最大手のアーケードヴィデオゲームメーカーとして君臨している企業です。とはいっても事業規模はそれほど大きくなく (従業員100名程度)、日本で知られ…

元最高齢ヴィデオゲームチャンプ、タイトル奪還に燃える

1984年、58歳にして「Q*バート」の世界チャンピオンに輝いたドリス・セルフという女性が、79歳になる今年、再びチャンピオンの座に挑戦するそうです。セルフ女史のツイン・ギャラクシーズ公認記録は1,112,300点。この記録そのものは翌年には抜かれてしまった…

「ブロックアウト」誕生の経緯

「ブロックアウト」といえば、テクノスジャパンとしては異色の3D「テトリス」としてご記憶のかたも多いと思います。これはカリフォルニア・ドリームズという海外メーカーによる作品の移植なわけですが、名前からしてアメリカの会社に違いないと思い込んでい…

Ultracade Technologies, MAME商標権出願取り下げ

MAME開発チームの重鎮、アーロン・ジャイルズ氏のホームページにおいて、先日お伝えした MAME商標権出願の件が取り下げられた旨が発表されています。かわってMAMEのオリジネイタであるニコラ・サルモリア氏による出願が行われたとのことで、いずれにせよ今後…

Jakks Pacific, SNKプレイモアと提携

プラグ・アンド・プレイ市場の先駆者・Jakks Pacificが、SNKプレイモアとの提携を発表しました。2006年春に「SNK TV Games」を約20ドルで発売する予定とのことです。先日ライバル会社のラディカがカプコンとの提携を発表していたので、それへの対抗措置なの…

Ultracade TechnologiesがMAMEの商標を出願

先月よりウルトラケード筐体の流通が日本国内でも正式に始まりましたが、その開発元であるウルトラケード・テクノロジ社が、アーケードエミュレータの総本山として知られるMAMEの商標を出願していたことが発覚しました。以前お伝えしたように、ウルトラケー…

ヴィデオゲームをプレイする資格

時間毎の入場制限という方式を執る日本のゲームセンターの未成年対策が、海外から見ると奇妙に映るという話を、Hayashidaさんが紹介しておられます。海外でもアーケードが少年犯罪の巣窟とみなされて、未成年立ち入り禁止となったケースは少なくありませんが…

復刻版「ギャラガ/Ms.パックマン」 2万台出荷

2万台といわれてもぴんと来ないかもしれませんが、米国におけるオリジナル「ギャラガ」の推計出荷台数が4万台だといえば、どれだけとんでもない事態かお分かりいただけると思います。で、以下は続報。 米国で個人の自宅に古いゲームなどを集めた娯楽室を作る…

Majesco Konami TV Arcadeも不評

マジェスコはアタリやコモドール (チューリップ) とならんで、プラグ・アンド・プレイ方面では最後発組にあたります。その「フロッガー・TVアーケード」と「コナミ・TVアーケード」は、どちらも10月頃に発売となったようですが、こちらもかなり悪評が高まっ…

Feeding Frenzy

ゲームセンタ向けエミュレータ筐体「ウルトラケード」でお馴染みのウルトラケード・テクノロジ社は、最近それと並行して、オールドスクール風オリジナルゲームの開発も進めています。「フィーディング・フレンジ」はその第一弾で、ひたすら魚を食べまくるだ…

「クレイジーコング」はUPL開発だった?

「クレイジーコング」の基板は、本家「ドンキーコング」ではなく、それより一年ほど前に出ていた「クレイジークライマー」(日本物産) の基板に依拠した設計だったことが知られています。任天堂から許諾を受けていながら、その基板を直接コピーさせてもらうこ…

「クレイジーコング」の真相

「ドンキーコング」には、かつて「クレイジーコング」という有名なクローン版がありました。駄菓子屋界隈では本家よりよく出回っていたくらいなので、当時のゲームプレイヤならどなたもご存知だと思います。しかしこれが任天堂から許諾を受けて製造されたも…

Midway 8080 System

DNAは翌年バリーに吸収され、完全にそのシンクタンクとして機能するようになりました。これによりミッドウェイはアタリにも劣らぬ最先端ヴィデオゲーム技術の担い手として、大きく飛躍することになります。「ガンファイト」を手がけたデイヴ氏とトム・マクヒ…

ふたりのNutting

プロフェッショナル・アーケードのハードウェアは、1970年代のバリー/ミッドウェイを影で支えたデイヴ・ナッチング・アソシエイツ (DNA) 社の、高度なマイクロプロセサ技術の結晶とも呼べるものです。社名でお気づきかと思いますが、このDNAというのは、最初…

Nintendo 3-in-1 Arcade 登場

「ドンキーコング」「ドンキーコングJr.」「マリオブラザーズ」といった任天堂のアーケードヒット三作品がセットになって、アーケードに復活します。筐体まで含めて非常に高い再現性だという話ですが、「ドンキーコング」シリーズはモニタが縦、「マリオブラ…

Atari Football

レインズ氏は、ブリストウ氏の抱いていたフットボールゲームのアイデアに共感していたようです。彼はこの実現のためにもう一段改良を重ね、ついに最高16個のスプライト同時表示を達成しました。これで開発に弾みがつき、ブリストウ氏の夢見たゲームは1978年…

Sprint 2

グラスヴァレー・チームはこれ以降アーケードゲームから遠ざかり、家庭用機でのスプライト実用化に心血を注いでいます。アーケード方面での研究を継いだのは、ブリストウ氏とならぶ古株であり、「インディ800」や「スティープルチェイス」を手がけたライル・…

Tank-8

まだアタリを興す前、ノラン・ブッシュネル氏はヴィデオテープを発明したことで知られるアンペックスという会社に勤めていたことがあります。彼はそこでスティーヴン・メイヤーという凄腕エンジニアに出会い、その才能に感銘を受けていました。アタリ設立後…

Steeplechase

アタリがスプライト技術を編み出したのは、1975年頃のことです。この当時、アタリをはじめとする最先端のゲームメーカたちは、画面上で複数のキャラクタを効率的に描画するにはどうすればいいかという課題に頭を悩ませていました。「ポン」ぐらい単純なゲー…

なぜ初期の3Dゲームは日本で受けなかったのか

日本では1985年まで、「ポールポジション」を例外として、不思議なほどに平面ゲームばかり支持される傾向がありました。事実今回取り上げたゲームの半数以上は、日本ではマニア層にしか認知されていません。この差はよく「リアリティに対する国民性が違うせ…

Raster Scanの逆襲 (1981-1984)

アタリがヴェクタースキャンに熱を上げていたころ、これと対照的に、ラスタースキャンによる擬似3Dゲームの開拓に力を入れていたのが、セガ/グレムリンでした。彼らにもシネマトロニクスから受け継いだヴェクタースキャンの技術があったわけですが、それを活…

Vector Scanの時代 (1977-1983)

アーケードにおける3D表現を大きく前進させたのは、ヴェクタースキャン (ランダムスキャン) ディスプレイという新技術でした。いや、新技術と書くと語弊がありますね。よく知られているように、ヴェクタースキャン・ディスプレイは原理的にはオシロスコープ…

その後のExidy

1980年代のエキシディは、もう一人の鬼才、ラリー・ハッチャーソン氏をゲームデザインの主戦力とし、「マウス・トラップ」ほかいくつかのヒット作を残しています。「チラー」を初めとするガンシューティング路線を支えたのも彼でした。しかし残念ながら、彼…

Star Fire

アイヴィ氏が一線を退いて以降も、エキシディの快進撃はしばらく続きました。1978年、米国に「スペース・インベーダー」が上陸したのとほぼ同じ頃、エキシディは技術の粋を凝らした鮮やかな擬似3Dシューティングゲーム・「スター・ファイア」を送り出してい…

Car Polo

「サーカス」「ロボット・ボウル」に次いでアイヴィ氏が手がけたのは、4人同時プレイ可能なカー・サッカー「カー・ポロ」 (1977) です。それほどヒットはしなかったようですが、これもなかなかの意欲作でした。わずか4キロバイト未満のプログラムを駆使して…

Circus

「デス・レース」の翌年、アイヴィ氏はマイクロプロセサの使用技術を身に付け、さらなる成果を披露しています。そのひとつが、「デス・レース」とならぶエキシディの代表作、「サーカス」でした。「サーカス」は一般的には「ブレイクアウト」(ブロックくずし)…

Death Race

アイヴィ氏がエキシディで手がけた最初の作品は、「デストラクション・ダービー」 (1975) です。これはアタリが同年にリリースした「クラッシュ・アンド・スコア」 (1975) にヒントを得たと思われる、見下ろし視点のカー・アクションでした。「クラッシュ・…

Clean Sweap

1974年6月、ラムテックはアイヴィ氏の手がけた最初のヴィデオゲームを世に送り出しました。このころアタリ以外のメーカはまだ「ポン」の亜流作りに終始していたのですが、アイヴィ氏はその枠に収まらないユニークなゲームをいちはやく完成させています。のち…

語られざるヴィデオゲームの革新者―――エキシディとハウエル・アイヴィ

前回エキシディについて少し触れましたが、この会社に関する系統だった解説は、考えてみるとまだ誰も著していないのではないでしょうか。日本では一連の残虐ゲームと「サーカス」くらいしか知られていないメーカではありますが、卓越した技術力で1970年代を…