スプライトの起源 (1)

背景グラフィクスの処理とキャラクタグラフィクスの処理をハードウェアレベルで切り離し、あとから合成する―――という、いわゆるハードウェア・スプライト技術の確立は、ヴィデオゲーム史上もっとも重大なブレイクスルーのひとつに数えられます。1980年代のゲームが1970年代に比べて飛躍的に表現力を向上させることになったのは、この技術によって何十個ものキャラクタたちを縦横無尽に行き交わせることができるようになったためでした。1990年代にフレームバッファ方式が主導権を握るまで、ヴィデオゲームの進化は、スプライトの描画性能をどこまで伸ばせるかに懸かっていた―――といっても過言ではありません。

日本でスプライト機能が注目されるようになったのは、おもにファミコンの登場以降でした。それゆえファミコン以降のスプライト事情はよく知られているわけですが、逆にそれ以前の時代については、今日に至るまでまったく整理されていません。そのせいでスプライトの起源についても、誤った認識が定着してしまっています。

まずはっきりさせておきますが、最初にスプライト技術を実用化したのはナムコの「ギャラクシアン」でも、テキサス・インストゥルメンツVDP (TMS9918) チップでもありません。たしかにこの両者は、スプライト技術の浸透に筆舌しがたく貢献しましたが、技術としての下地を整えたのは、実はアタリなのです。この事実が見過ごされがちな理由は、アタリが自らの発明について不思議なくらい寡黙だったためでしょう。アタリ自身はこの技術を「モーション・オブジェクト」と呼んでいました。「スプライト」という用語はVDPチップの設計者たちが後から考え出したものなのですが、それが一般名として根を下ろしてしまったことからも、アタリの寡黙ぶりが分かると思います。アタリ以外では唯一ナムコだけが「オブジェクト」という呼称にこだわっていました。彼らはスプライトがどこから来たのか心得ていたのですね。

Steeplechase

アタリがスプライト技術を編み出したのは、1975年頃のことです。この当時、アタリをはじめとする最先端のゲームメーカたちは、画面上で複数のキャラクタを効率的に描画するにはどうすればいいかという課題に頭を悩ませていました。「ポン」ぐらい単純なゲームなら、キャラクタごとにいちいち表示回路を組んでいても、それほど負担にはならなかったわけですが、ゲーム内容やキャラクタグラフィクスが複雑化してくるにしたがって、そういうやり方では設計面でも製造コスト面でも無駄が目立ちすぎるようになってきたのです。アタリは1975年に、画面内周回型レーシングゲームのヒット作「インディ800」をリリースしていますが、これなどは八台のプレイヤ・カーひとつひとつに、まるまる基板一枚を割り当てていたといいます。

アーケード各社はそれぞれのやりかたで最適化に挑んでいたわけですが、アタリがここに賭ける意気込みは、他社とは一線を画していました。そうなるきっかけを作ったのは、ステフェン・ブリストウ氏です。彼は「ポン」のヒット後にアタリが雇い入れた最初のエンジニアで、1974年頃からずっと、アメリカンフットボールをヴィデオゲーム化したいという野望を抱いていました。その当時のヴィデオゲームといえば、移動するキャラクタはどんなに多くても5個程度しか登場しません。しかしフットボールとなれば、最低でも20個近くのキャラクタを一度に処理する必要があります。これを実現するためには、単なる最適化にとどまらず、表示技術を根本的に革新する必要があったわけです。

1975年10月、彼はその最初の成果を「複数イメージ位置コントロールのシステムと手段」という特許にまとめています。おそらく「スティープルチェイス」 (1975) あたりから実用化されたものでしょう。これは「インディ800」のおよそ半年後に登場した6人対戦ゲームですが、キャラクタ表示を含むすべての機能を一枚の基板に収めることに成功しているのです。そのうえ全キャラクタに継続的にアニメーションまでさせているのですから、まさに革新というほかありません (ヴィデゲームにおけるパターンアニメーションもまた、ブリストウ氏による同時期の発明で、この直前にリリースされた「シャーク・ジョーズ」で初採用されています)。しかし「ハイパーオリンピック」のハードル競技をもっとシンプルにしたようなゲーム内容は、当時としても単調すぎたのか、それほど注目は集めなかったようです。

ブリストウ氏の特許には、キャラクタを背景と合成するという概念はありません。つまりまだスプライトと呼べる技術にはなっていないわけですが、このキャラクタ表示の徹底的な合理化は、スプライトへの第一歩となりました。

Tank-8

まだアタリを興す前、ノラン・ブッシュネル氏はヴィデオテープを発明したことで知られるアンペックスという会社に勤めていたことがあります。彼はそこでスティーヴン・メイヤーという凄腕エンジニアに出会い、その才能に感銘を受けていました。

アタリ設立後の1973年、メイヤー氏は同僚のラリー・エモンズ氏とともにアンペックスを辞し、シアン・エンジニアリングというコンサルタント会社を設立します。アタリはすぐに彼らの技術を積極的に活用しはじめ、やがて独占契約を締結しました。シアン・エンジニアリングはアタリのシンクタンクとして、技術的な難問の解決に大車輪の活躍を見せ、まもなくその所在地「グラスヴァレー」が愛称として使われるほど身近な存在となっていきます。

前述のブリストウ氏による発明も、実はメイヤー氏との共同研究によるものでした。ブリストウ氏はその後アーケード部門のエンジニアリング責任者に任命され、表立ってゲームデザイナとして活躍することはなくなるのですが、キャラクタ表示に関する研究は、メイヤー氏とグラスヴァレー・チームがしっかりと引き継ぎました。そして1975年の終わり頃までに、背景とキャラクタの処理システムを二分化し、水平帰線期間を活用してこれらを合成するというスプライトの基礎を、ついに確立するのです。この技術はのちに「ヴィデオ画面に移動オブジェクトを多数生成する方法」という特許になっていますが、製品としてはじめて実用化したのは、メイヤー氏らが自らデザインした「タンク8」 (1976) でした。アタリが初めてマイクロプロセサを採用したことで知られる、8人対戦型の戦車ゲームです。

Sprint 2

グラスヴァレー・チームはこれ以降アーケードゲームから遠ざかり、家庭用機でのスプライト実用化に心血を注いでいます。アーケード方面での研究を継いだのは、ブリストウ氏とならぶ古株であり、「インディ800」や「スティープルチェイス」を手がけたライル・レインズ氏です。彼はグラスヴァレーの技術をさらに発展させ、まず複数のスプライトキャラクタを重ね合わせて表示できるようにしました。この成果は「タンク8」と同じ年にリリースされた「スプリント2」に現れています。「スプリント2」は、マイクロプロセサとスプライト技術で「インディ800」を再構成したような作品で、いわゆるアタリフォントを用いた最初のゲームでもありました。以降スプライトを使用するアタリのゲームは、たいていこの系統のフォントを用いていますから、アタリフォントはスプライト技術の象徴的存在ともいえるでしょう。

Atari Football

レインズ氏は、ブリストウ氏の抱いていたフットボールゲームのアイデアに共感していたようです。彼はこの実現のためにもう一段改良を重ね、ついに最高16個のスプライト同時表示を達成しました。これで開発に弾みがつき、ブリストウ氏の夢見たゲームは1978年、ようやく「アタリ・フットボール」として完成するのです。このゲームは日本でこそまったく無名ですが、アメリカでは同年最大のヒット作となり、NFLシーズン中は「スペース・インベーダー」をも凌ぐ人気を誇ったといいます。このゲームはまた、トラックボールを採用した最初のヴィデオゲームとしても歴史に名を残しています。

「アタリ・フットボール」で用いられたスプライトシステムは、のちにMOC-16 (Motion Object Control, 16 objects) という汎用スプライトシステムへと発展しています。「アタリ・フットボール」の開発に参加していたマイク・オルボー氏は、「MOC-16は日本のヴィデオゲームメーカたちの手で広くコピーされ、そして改良された」と述懐しています。やがてスプライト技術の旗手となるナムコが、その最初のヴィデオゲーム「ジービー」を世に送り出したのは、ちょうど「アタリ・フットボール」がお目見えした1978年10月でした。その時から彼らはMOC-16を徹底的に研究していたのでしょう。「ギャラクシアン」を世に送り出し、最高4個のカラースプライト同時表示という技術を披露したのは、それからわずか一年後のことです。ナムコが積極的にアタリフォントを使っていたのは、もしかすると自分たちの技術の礎を築いたアタリに対する、隠れた賛辞だったのかもしれません。

参考: