スプライトの起源 (3)

インテルが世界最初のスプライトチップ・8244を完成させた頃、アタリは新型家庭用ヴィデオゲーム機・VCSの開発に着手していました。その最初の試作機をアタリのグラスヴァレー・チームが完成させたのは、1975年終わり頃のことです。時期的にはアーケードの「タンク8」とほぼ同じ頃合に開発されていたことになりますが、両者のスプライトの採用事情はまったく異なります。アーケード機におけるスプライトが「より多くの移動キャラクタを効果的に表示するための手段」だったのに対し、家庭用機のスプライトは「高価なメモリを極力グラフィクスに割かないで済むようにする工夫」でした。前回のインテル編でも似たような話を少し書きましたが、アタリの事情はヴィデオゲーム専門メーカならではのものだったといえます。

TIA

カートリッジを交換することによりゲームの種類を無限に増やすことができるという、いわゆるマイクロプロセサ方式の時代は、アタリVCSが発売される約1年前に幕を開けていました。その第一波となったのが、フェアチャイルドヴィデオ・エンタテイメント・システム (VES, のちチャンネルFに改称) と、RCAスタジオIIです。どちらもグラフィクスは、ベタ塗りのビットマップで表示していました。しかし前者は2キロバイト、後者も1キロバイトしかグラフィクス専用RAMを持っていなかったので、きわめて粗い画面に甘んじています (VES: 縦64横128ピクセル。スタジオII: 縦32横64ピクセル)。これらは当時の最新アーケードゲームと比べると半分以下の解像度で、アーケード移植を主眼に置いていたアタリにとっては、およそ問題外の水準でした。とはいえ半導体大手であるフェアチャイルドさえ2キロバイトしか用意できないものを、アタリにそれ以上用意できるわけもありません。何か妙案が必要でした。

ビットマップに代わる手段を模索するうちに、グラスヴァレーの開発者チームはふと、画面のすべてを美しく描画する必要はないということに思い至りました。考えてみれば、プレイヤはゲーム画面全体を隈なく眺めているわけではありません。視線は主としてプレイヤキャラクタや敵キャラクタなど、移動するキャラクタに向けられるものです。ならば背景の解像度は多少低くしても構わないだろうという理屈でした。

さいわいにして、当時のゲームはどのみちそれほど複雑な背景を必要としていませんでした。極端にいって、壁や障害物がそこにあることさえ分かれば、それで用は足りたのです。そういうものは大雑把に描いておいて、自分や敵のキャラクタだけはよりきめ細かいグラフィクスで表示する―――そのためには背景とキャラクタを別々に処理して、あとで合成するという仕組みが必要になります。つまりスプライト技術です。

ビットマップ描画にはもうひとつ大きな問題点がありました。頻繁に膨大な情報量を処理しなければならないため、CPUに懸かる負担が大きくなりすぎるのです。逆にいうと、背景を簡略化すればしただけ、CPUのパフォーマンスは向上したわけです。前回述べたように、インテル側のスプライト技術は、主としてこの目的のために生み出されたものでした。インテルのスタッフは、縦横ラインとボックスだけ描ければ背景は事足りると考えたわけですが、グラスヴァレー・チームはこの点ではさらに上手でした。アタリVCSはわずか20ビットのメモリ空間を巧みにやり繰りしながら、縦192ピクセル・横40ピクセルの擬似ビットマップを実現しています。

必要なメモリを1ビットでも減らそうという努力は、スプライト機構にも見て取ることができます。VCSは三系統・5枚のスプライトを、用途にあわせて使い分けるという、無駄のない仕組みになっています。

  • プレイヤ・オブジェクト:

    ごく普通のスプライト。自由にデザインしたキャラクタ画像 (8ピクセル幅/単色) を画面内に2枚まで配置可能。
  • ミサイル・オブジェクト:

    デザイン不可。正/長方形 (1ピクセル幅) を表示するだけの、まさに弾丸専用スプライト。画面内に2枚まで配置可能。
  • ボール・オブジェクト:

    表示内容そのものはミサイル・オブジェクトと同等。ただし「ポン」や「ブレイクアウト」ようなゲームで、ボールを滑らかに動かすための工夫が盛り込まれている。画面内に1枚のみ配置可能。
この構成からお分かりだと思いますが、アタリVCSはもともと「タンク」のような対戦射撃ゲームや、「ポン」のようなボールゲームに最適化された設計になっていました。それ以上の可能性はあまり期待されていなかったのです。したがってその製品寿命も、当初は三年が限度だろうと考えられていました。しかし実際にVCSブームに火が点いたのは、その寿命を超えたはずの1980年になってからです。アタリVCSのグラフィクス機能は、設計者が意図した以上に懐の深いものに仕上がっていたのです。

アタリがVCS専門に雇った最初のゲームプログラマであるラリー・カプラン氏 (のちのアクティヴィジョン創設者のひとり) は、プログラミングをはじめてすぐ、各「プレイヤ・オブジェクト」に2枚の分身を持たせることができるという事実を発見しました。これにより画面内に6枚までのキャラクタを、ちらつきなしで表示できるようになったのです。「この機能がなければ、VCSは発売後5年でとっくに消えていただろうね」彼はVCS最盛期に、そう語ったことがありますが、これは掛け値なしに真実でした。VCSが大ブレイクするきっかけを作った「スペース・インベーダー」は、分身技なくしては作り出せないものだったからです。

VCS版「スペース・インベーダー」(1980)。フェアチャイルドでVESのゲームプログラムを担当していたリチャード・マウラ氏が、アタリに移籍して手がけたもの。彼は「プレイヤ・オブジェクト」を、画面全体でではなく、横方向だけで6枚まで並べるプログラムテクニックを開発し、北米に「スペース・インベーダー」ブームが巻き起こった頃には、すでにプログラムをおおよそ完成させていた。しかし当初アタリ内部の人間は誰もこの移植を評価せず、上層部の目に留まるまで、しばらく放置されていたという。このあとマウラ氏はアーケード部門に移り、「スペース・デュエル」の開発に携わっている。画面は2人同時プレイモード時。
実のところ分身技は、試作段階のVCSにはできないものでした。グラフィクス機能をTIA (Television Interface Adaptor) と呼ばれるカスタムチップに集約する段階で処理能力に余裕ができたため、偶然可能になった技だったのです。VCSを歴史的なヒットに仕立てた真の功労者は、このチップデザイナだったといえるかもしれません。そしてその人物こそ、のちにアミーガの設計者として勇名を馳せることになるジェイ・マイナー氏だったのです。

Jay Miner

グラスヴァレーの設計したVCS試作機は、市販のワンボードマイコンと夥しい数の論理ICを組み合わせて作った、非常にハイコストなものでした。メモリにかかる費用を徹底的に節減する努力も、この回路をうまく簡略化できなければ無駄になってしまいます。できることならCPU以外の部品は、1個か2個のカスタムチップにまとめてしまいたいところでした。とはいっても、半導体の専門家ならぬアタリに、かくも複雑なチップをデザインすることはできなかったのです。

しかしアタリのスタッフは、家庭用「ポン」チップの製造を委託しているシナテック社に、とびきり優秀なチップデザイナが一人いるという話を聞きつけていました。これがジェイ・マイナー氏だったわけです。アタリ家庭用部門の開発責任者であるアラン・アルコン氏 (「ポン」の開発者) は、なんとかして彼の手を借りようと、さっそくシナテックに赴きました。


僕はシナテックに行って「この計画にはマイナー氏が必要なんだ」って言ったんです。
「そりゃだめですよ。彼はCPUチップデザイナのチーフなんですから」
「いや、君たちは分かっちゃいない。うちは是が非でも彼が必要なんだ。彼の給料を払うだけじゃなくて、君たちの工場がフル稼働し続けられるよう、うちのビジネスはすべてそちらに発注したっていい」
「そこまで言うなら手を打ちましょう」
マイナー氏はふたつのバッジを持つことになりました。シナテックのバッジとアタリのバッジです。こうして彼はアタリのチップ屋になりました。

アタリに招かれたマイナー氏は、1976年のうちにTIAチップの最終デザインをまとめました。完成したTIAには、描画関連の機能だけでなく、スコア算定機能や2チャンネルのサウンド出力も集約されています。アタリの期待には申し分なく添う出来だったといえるでしょう。しかしアタリはこのころ、VCSの製品化へと直ちに動き出すことができなくなっていました。同業者との熾烈な競争で体力をすり減らし、もはやVCSのように複雑な家庭用ヴィデオゲーム機を商品化できるだけの資金を確保できなくなっていたのです。アタリは会社そのものを売却することで、アタリVCSの製造資金を獲得しようと画策しました。そんな経緯で1976年10月、ワーナー・コミュニケイションズの傘下に入ったわけです。VCSの出荷がスタートしたのは、それからさらに1年後のことでした。

STIC (AY-3-8900)

アタリが急速に弱体化することになった要因はいくつかあるのですが、もっとも大きかったのは、怒涛のごとくヴィデオゲーム市場に台頭してきた半導体メーカたちの存在でした。なかでもとりわけ巨大な勢力となったのがジェネラル・インストゥルメントです。彼らは1975年の終わり頃から、約5ドルという常識破りの価格で「ポン」型ゲームのチップを供給しはじめたのです。

アタリの家庭用「ポン」は、発売初年 (1975年) にトップセールスを記録しました。しかし翌年には、ジェネラル・インストゥルメントの優勢が明らかになります。圧倒的な低価格に魅せられた大小多数のメーカーが、彼らの「ポン」チップを組み込んだ競合製品を送り出し、これが実に市場の9割を占めるまでになったのです。アタリをはるかに上回る成功を手にし、一気にヴィデオゲームチップ最大手へと成長したジェネラル・インストゥルメントが、次世代の主役を約束されているマイクロプロセサ方式のゲーム機に関心を寄せないわけがありませんでした。ジェネラル・インストゥルメントは1977年までにGIMINI 8900というヴィデオゲーム用チップセットを完成させ、一般販売をスタートしています。そしてそのグラフィクスを担うAY-3-8900, 通称STIC (Standard Television Interface Chip) チップにも、やはりスプライト機能が用意されていました。

STICは同世代のスプライトチップのなかではもっとも素直な設計で、8x8ピクセルの単色キャラクタを、画面内に8枚まで表示することができます。背景についてはやはりビットマップを敬遠し、パターンブロック方式を採用。自由にデザインした「カード」(8x8ピクセル/2色) を240枚敷き詰めることで、比較的細やかな映像を作り出すことができました。また縦横方向のスクロールもサポートしています (前回述べたシグネティクスの2637Nも、STICとよく似た背景システムを採用していました。彼らはインテルに続いてジェネラル・インストゥルメントの技術を参考にしたのかもしれません)。

STICは全体的に、TIAや8244よりいくらか高機能なチップといえますが、そのぶん高価でもあったのでしょう。広く一般に販売したにも関わらず、GIMINI 8900を使ってヴィデオゲーム機を作ろうという会社は、わずか一社しか現れませんでした。とはいえその一社の存在は、ジェネラル・インストゥルメントを歓喜させるのに十分なほど巨大でした。ヴィデオゲーム市場参入の機会を虎視眈々と覗っていた玩具業界の最大手・マテルだったのです。マテルはGIMINI 8900の登場後すぐにこれに目をつけ、新鋭ゲーム機・インテレビジョンの開発をスタートしました。しかしその直後にアタリVCSが発売されたため、マテルは競合を嫌って一度開発を断念しています。ようやく発売に漕ぎ着けたのは、1980年に入ってからでした。

メジャーリーグ・ベースボール」(1980)。発売当初のインテレビジョンは、スプライト枚数を多く必要とするスポーツゲームを主戦力としていた。アタリVCSが苦手とする (と思われていた) この分野で差別化を図ろうとしていたわけである。「メジャーリーグ・ベースボール」はなかでも最大の成功を収めた一本で、1983年までにミリオンヒットを達成している。

「スペース・インベーダー」によるVCSの巻き返しは、マテルにとって予想外の事態だったことでしょう。マテルはこの後、スプライトの数ではなく、ちらつきを起こさせないことでVCSに対する優位を強調しようとしました。VCS用ゲームの多くは、スプライト枚数を増加させるために、「フリッカー」(スプライトを点滅させることによって擬似的に表示枚数を倍加する) というテクニックを用いていたのですが、マテルはこれを禁じ手としたのです。

さて、このあとスプライトチップ開発の舞台は、ヴィデオゲーム機からパソコンに移っていきます。次回はその時代の三大巨頭―――アタリ400/800, TI-99/4, コモドール64―――の軌跡を紹介し、最終回としたいと思います。

参考: