ポストモダン化するコンピュータゲーム

コンピュータゲームは非コンピュータゲームと何か本質的に違うものかもしれない――ということは、たぶんゲームプレイヤの多くが漠然と感じてきたことだと思います。「ゲーム, プレイヤ, ワールド」は古典的ゲームモデルというものを提唱し、そこからの逸脱可能性こそコンピュータゲームならではのものである、ということを示してみせました。もちろんここまで明示的に述べていなくとも、既存のゲームモデルを突き破らんと考えてきた人々は、これまでにも大勢いました。その流れは少なくとも故リチャード・ゴールドスタイン氏の「リトルコンピュータピープル」までは遡ることができるでしょうが、日本のゲームデザイナがこうした変容に積極的に取り組みはじめたのは比較的最近で、めだった動きが顕れるのは1990年代半ばになってからでした。

これまでのところ、日本における脱ゲームモデル志向のゲームデザインはとりわけ「数値化可能な結末」を遠ざける方向、つまりコスティキャン流に言い換えるなら、「ゲーム」と「玩具」の境界領域を目指して突き進んできました。近年では「いっそゲームでなくしてしまったほうが面白いのではないか」というようなラディカルな意見さえ散見されるわけですが、思うにこの域に達した脱モデル化志向こそが、ゲームにおけるポストモダニズムなのではないでしょうか。

そうだとすれば、やがてヴィデオゲームは徹底的に解体し尽くされてしまうかもしれません。そういうものが一般化しうるかどうかは分かりませんが、いずれにせよその結果もたらされるのは、たぶん古株ゲーマーにはあまり居心地の良くない世界です。


ゲーマー脳は、きっちりとしたゴールのある古典的なゲームに楽しみを感じるよう長い年月をかけて熟成されたものだから、前の論文 (引用者註:「ゲーム, プレイヤ, ワールド」) でいうボーダーラインケースのものをそもそも楽しめないんじゃないかと思う。

旧来のゲーマーが「ゲームの定義を拡大する」というような言葉と真正面から向き合うためには、相応の覚悟が必要になるかもしれない、ということです。ちょうど先人たちがポストモダンな諸芸術を受け容れるときに持たねばならなかったような覚悟が。

そうはいっても、ヴィデオゲームの脱モデル化はもはや避けられない潮流であるように思われます――近年発展しているシリアスゲームという領域も、また別の軸からの脱モデル化ではないかと考えられるので、なおのこと。ポストモダンが徹底されたとき、現在の最先端ゲーマーは引き続き最先端でいられるでしょうか? ――最先端から転がり落ちて久しい私が言うのもなんですが。

水木潔語録

前回少し言及した任天堂の水木潔氏は、「ゲーム」よりも「玩具」の面白さを優先するというポストモダン的立場を鮮明に主張した、日本最初のゲームデザイナのひとりではないかと思います。氏は「ビートマニア」や「ニンテンドッグス」といった野心的な成功作で知られるわりには、ゲームデザインの姿勢について表立って語ることが少ないわけですが、じつは1997年頃のfjには、そのゲーム哲学の片鱗を窺わせる書きこみがいくつか埋もれています。

comparison (Re: 「 RPG 」 って何?) (1997.5) [分岐1]/[分岐2]

「ゲーム」と「玩具」の関わりを巡る西野元一氏との議論。ここで「コスティキャンのゲーム論」を初めて目にした水木氏は、次のように述べています。


なるほど、「game」と「toy」の違いなんて考えた事もありません
でしたが、そういう意味だと認識すると、ちょっと世界が明るく
見えてきますね:-)
僕が考えているのは、まさしく「toy」です。
そして僕は「toy」の方が、やはり面白いと思います。

何故なら、toyの方がより人生に近いと思うからです。
もしも人生はtoyよりもgameに近いと思う人がいるなら、それは
その人が不幸な生き方をしているという事でしょうから、それは
問題にしません。


やっぱりKid-Pixでしょうね、僕が目指しているのは。
知育玩具等にも興味がありますね。
対象を子供に特定しているわけでは無いんですけど。

ただ「大人の中の子供」を対象にしたいというのはあるかもしれません。

別スレッドには「『ゲームは砂場だ』というのがゲームを語る時の僕の口癖」という言葉も見られます。こういった姿勢は「ニンテンドッグス」にそのまま反映されているように思います。


ゲームを考える(二) (1997.2)


洗練されるから進歩が止まるのではなくて、技術革新が起こらなければ
進歩止まって、洗練が始まるのだと思います。
映画で良く言われますが、今の映画は白黒映画の最後の頃の洗練には
未だ到達していないとか、そういう事なんじゃないかと思います。
#SFXやCG技術が出なければ、とか色々想像出来ますよね。

だから、ゲームも技術革新が止まらない限り、永遠に洗練はされない
のでは、と僕は思います。

枯れた技術の水平思考」を氏なりの言葉で表したもの、ともいえそうです。氏は「ビートマニア」の当事者として、進歩の時代の終焉と洗練の時代の到来を、いち早く予見していたのかもしれません。

パソコンゲーム(Re: クローズアップ現代 (1997.4)

「いずれパソコンがゲーム機にとって代わるのではないか?」という議論。当時はコスト対性能比が歴然としていたため、あまり現実味のない話だったわけですが、


これは以前も話題に上りましたが、プログラムのアルゴリズムがより高度に
なればスタンドアロンのゲームにも可能性は多いにあると思います。ただ
現時点では、アルゴリズムが単純すぎて、深い楽しみが出来ないように僕
は感じています。

ゲームの進化は、僕は画像や音等の表現部分の進歩では無く、アルゴリズム
が複雑化してきた過程だと思っています。その部分の進化をどこに求めるか
ですね。今まで通りプログラムだけで対応するのか、それとも…、という
ところです。

ようやくこの発想に時代が追いついた、という気がしますが、さてネットワークの次に「アルゴリズムの複雑化」を促すものは、いったい何になるでしょうか。興味深いところです。


ゲーム性って何 ? (1997.2)


クリエイター指向というのを勘違いすると、単に自分の趣味をプレイヤー
に押し付けるだけのものになってしまいます。
そのクリエイターのセンスがプレイヤーの好みに合えば、まあいいんです
けど、真に最高のゲームはプレイヤーの趣味にゲームが合わせてくれるもの
だと思います
現在の技術では限定的にしか実現は出来ませんが、ゲームの理想の姿を
考えればそうなるはずです。

クリエイター志向を傘に着た単なる理不尽を押し付けられることが、当時はとくに多かったような気がします。ゲームにおける究極のクリエイター志向とは、ひょっとするとまるきり逆で、制作者の個性をまったく覗かせないことなのかもしれません。