PKARC牙城の崩壊〜次世代スタンダード争い

ところが1988年に、PKARCは著作権侵害でSEAから提訴され、将来的に配布を中止することに同意。その先行きにいきなり暗雲が垂れ込めることになりました。この事件は、ちょうどポストPKARCを目指して盛り上がろうとしていた日本のLARC/LZARI (LHarcのルーツにあたる圧縮ソフト) 開発陣にも驚きを与えています。奥村晴彦「データ圧縮の昔話」が、開発当時のPC-VANの様子を伝えているので、参考になるでしょう。

PKARCがもう使えないとなると、新しいスタンダードとなるものを探さなければなりません。旧来のARC? それともZOO? 確かにそういう選択肢を採ったBBSもありましたが、どちらにしても技術的退行であることは否めません。そんななかフィル氏は、独自の高性能アルゴリズムを用いた新しい圧縮ソフトを送り出すと宣言します。大勢はこれをある種のハッタリだと見なし、そんなに期待はしていなかったようですが、いざそのソフト・PKZIPがリリースされてみると、呆れるほど速やかに浸透が進み、いとも簡単にPKARCの後釜に座ってしまいます。この背景にはPKZIPのバランスのとれた高速・高圧縮技術だけでなく、フィル氏に同情的な世論の影響などもあったようですが、現在隆盛を誇るZIP形式の土台は、ともかくこのようにして築かれたわけです。

ところで、PKARCはアセンブラに大きく依存した設計だったため、ARCやZOOと違って、ほとんど他機種に移植されませんでした (アミガ版、UNIX版、VAX/VMS版の存在が確認されていますが、皮肉なことに、これらはSEAが訴訟を起こすのと相前後してリリースされることになります)。そういうわけで、MS-DOS以外の環境では、これに代わるデファクトスタンダードが生まれています。アップルIIのShrinkIT、マッキントッシュStuffITなどが代表的な例ですね。LHarcもまた、単に高性能だったためだけではなく、海外の有力な圧縮ソフトが十分に普及していなかったからこそ、あっという間に日本での標準的地位を獲得するに至ったのだといえます。

LHarcは登場翌年にあたる1989年に、はやくもUNIXに移植されて海を渡っています。アミガやアタリSTのように、まだ決定打となるような圧縮ソフトを持っていなかった機種 (…いや、SEAの訴訟さえなければ、その前年にリリースされていたアミガ版PKARCであるPKAXは、きっと決定打になっていたのでしょうが…) にとって、この登場は渡りに船でした。両機にはその年のうちにLHarcが移植されているのですが、これはまったく絶妙なタイミングだったというほかありません。というのは、ほとんど同じ頃にPKZIPがMS-DOS方面に現れており、LHarcの上陸があと一年遅れていたら、アミガやアタリのユーザーも先にそちらに注目していたであろうからです。実際、少し後に両機種用のZIPアーカイバも登場してはいます。しかしこれはLHarcと拮抗することさえできませんでした。一般的にはLHarcのほうが圧縮率が高かったためだとか、インターフェイスがあまり洗練されていなかったからだとかいわれていますが、LHarcにはなんといっても、タッチの差でも先にスタンダード化していたという強みが大きく作用していたはずです。

LHarcは、1990年頃には早くもアミガ/アタリSTの主流として君臨するようになります。アミガにLHarcを移植した最初の人物は、イタリアのパオロ・ジッティ氏でした。そして1992年にはアセンブラによる高速化を極めたLZが、カナダのジョナサン・フォーブス氏の手でリリースされ、その後継LXとともに、長くスタンダードとして親しまれることになります。ジョナサン氏は1995年にLHAを独自に改良・発展させた・LZXを生み出し、アミガのLHAは本家と異なる道のりを歩み出しています。

参考:
A Short History of Arching on Micros, Paul Homchick 1988
ZIP file history, Gary Conway
アーカイブ形式解説 (PKZIP以前の時代については誤認も多いですが)