ソヴィエト・ロシアのパソコン黎明期

旧ソ連に本格的なホームコンピュータ時代の波が訪れたのは、やはり冷戦終結期のことでした。しかしヴィシェグラード各国 (ポーランドチェコ、スロヴァキア、ハンガリー) に比べると、市場の活性化には少し遅れをとっています。これは市場開放そのものが遅れたためでもあるのですが、それ以上に、輸入パソコンの価格が不当に吊り上げられてしまう市場の仕組みが足を引っ張ったためでした。

ソ連は1988年からコーペラチフ (協同組合) という形での営利団体設立を認めるようになります。これにより西側製パソコンを合法的に輸入販売することも可能になりました。しかしこのシステムを悪用して、西側ではとっくに時代遅れになったようなパソコンを法外な価格で国内に転売する、犯罪組織すれすれの集団が跋扈するようになったのです (これがいかにいい稼ぎになったかは、岩上安身氏によるアレクサンドル・チトフ氏へのインタビューによく表れています)。このために、たとえばZXスペクトラムを手に入れようと思えば、13年分の年収に相当する4万ルーブルもの金額を支払わなければならないような状況が生まれました。IBM-PC (非XT/AT) ともなれば6万ルーブル、実に20年分です。同じ時期のポーランドでは、タイメックス・シンクレアを給料1ヶ月分で、チェコスロヴァキアではMZ-800を高給取得者の給料4ヶ月分で購入できた―――といえば、いかに格差が大きかったかお分かりでしょう (そんな状況でもモスクワにはアタリのユーザーズクラブが出来ていたそうですが)。

そういうわけでソ連の一般大衆にとっては長らく、パソコンの個人購入など夢のまた夢という状況が続いていました。それでもパソコンが欲しいとなったら、どうすればよいのか。道はひとつ。自作することです。ソ連における自家製パソコンの伝統は意外に古く、1983年に『ラジオ』誌が組み立て方法を紹介した、マイクロ80 (Микро-80) という機種にまで遡ることができます。8080 CPU (ソ連製クローン)、6.5KBのRAM、モノクロのテキスト画面サポートというごくシンプルな構成のマシンですが、まもなく洗練されたBASIC言語が発表されたため、意外にいろいろなことができたといいます。これはまさに、アメリカのアルテア8800や、日本のTK-80のような役割を果たしたマシンだったといえるでしょう。ただし、半導体部品点数200個以上という非常に複雑な構成だったため、誰でも簡単に組むことができるというものではありませんでした。

こうしてソ連のパソコンシーンは、アマチュア主導で幕を開けました。以後は長きにわたって自作パソコンの時代が続くことになります。1985年には、ウクライナのエンジニアであるA.ヴォルコフ氏が、4色カラーとキャラクタフラフィックスを実現したスペシャリスト (Специалист) なる機種の製作方法を紹介しました。しかしより大きな注目を集めたのは、それよりはずっと非力なマイクロ80の上位互換機・ラジオ86RK (Радио-86РК) でした。これは1986年にやはり『ラジオ』誌で公開されたもので、性能面ではマイクロ80と大差ありません。しかし部品点数が29個にまで削減されており、格段に組み易いものになっていたのです。この効果で、ラジオ86RKはソ連における第一次パソコンブームの象徴ともいうべき存在になっていきます。

やがてコーペラチフの設立が認可されるようになると、ラジオ86RKはさまざまなメーカーからキット販売されるようになりました。この製造は1991年頃まで続き、後年には完成品も販売されていたといいます。もともとがオープンアーキテクチャだったおかげで、ラジオ86RKは非常に円滑にスタンダードとしての地位を確立していくことができたわけです。いちはやくオープンアーキテクチャ主体の市場スタンダードを形成したという点で、ソ連は日欧米より先進的だったといえなくもありません (もっともこの逆に、47もの省庁で個別に行ったという官製パソコンの開発は、お互いに何の接点も持たなかったため大失敗に終わったといいます。ソ連の経済改革は、こういう意味でも起こるべくしてきたものだったといえそうです)。

ラジオ86RKと同じ頃には、他にもさまざまな機種が登場しています。もっとも有名なのは、初の正式なソ連製パソコンとして知られるAGATシリーズでしょう。1984年のCeBITでこれが披露されたときには、いよいよソ連もパソコンに進出かと注目されたわけですが、ふたを開けてみればキリル文字をサポートしたアップルIIクローン機以外の何者でもありませんでした。AGATシリーズは研究・学習向けに開発されたもので、一般にはあまり出まわっていません。

正規に市販されたものとしては、BK-0010 (1985) が最初です。PDP-11相当のCPUをベースにした4色カラーグラフィックスのマシンで、完成型で流通しました。当初の価格は72,400ルーブルと、普通に生活している人にはとても手の出せない代物でしたが、間もなく650ルーブルにまで下落し、学校や家庭を中心にある程度の人気を博すようになりました。

ほかにも詳細不明のIBM-PC/XT互換機・MC1502など、何機種かあったようです。またソ連文部省は1988年にヤマハから4000台のMSX/MSX2仕入れ、国営学校に配備しました。当時はヤマハの名前がパソコンの代名詞になったというくらいですから、その存在感は相当なものだったのでしょう。このようにして、ペレストロイカの初期から、ソ連ではさまざまな形でパソコンの浸透が始まっていたわけです。こうした「正規のパソコン」は、1988年までに少なくとも5万台以上存在していたと見られています (CIA調べ)。