語られざるヴィデオゲームの革新者―――エキシディとハウエル・アイヴィ

前回エキシディについて少し触れましたが、この会社に関する系統だった解説は、考えてみるとまだ誰も著していないのではないでしょうか。日本では一連の残虐ゲームと「サーカス」くらいしか知られていないメーカではありますが、卓越した技術力で1970年代を突きぬけていったエキシディの功績は、本来もっと高く評価されてしかるべきものです。彼らなくしては「ブレイクアウト」も「スペース・インベーダー」も、おそらく存在しなかったでしょうから。

一般に語られるアーケードの歴史は、「ポン」の誕生と「スペース・インベーダー」のヒットの狭間にある約五年間を、驚くほど軽視しています。こと日本では「ブロックくずし」を唯一の例外として、この時期のゲームは黙殺にも等しい扱いを受けているとさえいえるでしょう。はなはだ残念なことに、これらを体系的にまとめた資料はいまだ存在していません。『業務用TVゲームの歴史』が出版されれば、その空白は埋まることになるかもしれませんが、現時点で読み応えのある考察を展開しているのは、私の知る限り「Takaさんの洋ゲー研究所」くらいしかないという状況です。

1973年から1977年にかけて誕生したゲームのなかには、たしかに爆発的といえるほどのヒット作はありませんでした。もっともよく売れた「スペース・ウォーズ」でもせいぜい3万台程度だったといいますから、市場そのものが低迷していたことも否定できないでしょう。しかしそれでも、この時期にはヴィデオゲーム史の非常に重要なターニングポイントがいくつも埋もれているのです。画面のカラー化、キャラクタの複雑化、マイクロプロセサの導入によるゲーム内容の高度化、シューティングやカーレースなどの新ジャンル台頭、それに伴なう操作系の多様化、一人プレイ可能なゲームシステムの発展…この時代に成し遂げられた革新と多様化は、枚挙に暇がないほどです。そしてその大半は、ヴィデオゲームの創始者アタリではなく、アタリを追って急成長を遂げた、新しいヴィデオゲームメーカたちの手で実現したものでした。

この時期の最重要メーカとしては、エキシディのほかに、タイトーグレムリン、ユニバーサル・リサーチ・ラボラトリーズ/エレクトラ・ゲームズ、シネマトロニクス、そしてミッドウェイ傘下のデイヴ・ナッチング・アソシエイツなどを挙げることができます。今日まで生き残っているのが唯一タイトーだけというあたり、先カンブリア紀にも似た趣がありますが、エキシディはこのなかで、アイデアと技術力のバランスが特に秀でた存在だったといえます。

エキシディのルーツは、1971年に創業したラムテックという会社にあります。ラムテックはもともとグラフィックディスプレイを中心とするコンピュータ周辺機器メーカだったのですが、「ポン」ブームが勃興するやその技術を活かしてヴィデオゲーム市場にも進出。「ホッケー」「サッカー」といった「ポン」の亜流ゲームを次々に送り出しました。このラムテックでマーケティング担当重役を務めていたのが、H.R.「ピート」カウフマン氏です。彼は1974年にヴィデオゲーム専門の会社を設立しようと決意し、何人かの仲間とともにラムテックを抜け、エキシディをスタートしたのです。

エキシディとは「ダイナミクスにおける素晴らしさ」(EXcellence In DYnamics) を略した造語です。おそらくカウフマン氏は、ヴィデオゲームの革新者たらんとする意気込みを示したのだろうと思いますが、その理想に叶うようなゲームデザインが現実のものとなるのは、ある男を招き入れてからでした。その男とは、カウフマン氏と入れ替わるようにしてラムテックにやってきた新人ゲームデザイナで、名前をハウエル・アイヴィといいます。