Death Race

アイヴィ氏がエキシディで手がけた最初の作品は、「デストラクション・ダービー」 (1975) です。これはアタリが同年にリリースした「クラッシュ・アンド・スコア」 (1975) にヒントを得たと思われる、見下ろし視点のカー・アクションでした。「クラッシュ・アンド・スコア」は画面内のあちこちに現れるコーンに、制限時間内で何回追突できるかを競うというゲームですが、「デストラクション・ダービー」ではこのコーンをランダムに動き回るコンピュータ・カーに置き換えて、いっそうスリリングな内容に昇華させていました。

今日の視点から見ればどうということのないシンプルなゲームですが、これがヴィデオゲームにマイクロプロセサが用いられるようになる以前の作品だということは、念頭に置いておかなければなりません。マイクロプロセサを使わずして、コンピュータ・カーのような自動移動するキャラクタを実現することは、並大抵の苦労ではありませんでした。1975年までのゲームは大半が対戦式だったことからも、その困難が分かります。当時このような技術を持ち合わせていたメーカは、ほかにはタイトーエレクトラ・ゲームズ、そしてアイヴィ氏の古巣ラムテックぐらいしかなかったのです。

エキシディはのちにこのゲームの権利を、ピンボール大手のシカゴ・コインに売り渡しています。ところがシカゴ・コインがロイヤリティの支払いを拒んだため、エキシディはこのゲームから十分な利益を得ることができなくなってしまったのです。報復措置として、エキシディは「デストラクション・ダービー」のキャラクタ改変版を作ることにしました。これならライセンス問題をこじれさせることなく、シカゴ・コインに対抗することができるというわけです。こうして生み落とされたのが、かの問題作「デス・レース」 (1976) でした。

「デスレース」は映画「デス・レース2000」にヒントを得たものです。アイヴィ氏は追突する相手を車から人間型キャラクタに置き換え、これにヒットすると悲鳴が上がるという演出を加えました。開発段階では「ペデストリアン」(歩行者) という仮名が充てられており、映画と同様あからさまに殺人行為を意図した内容だったのですが、それではさすがにまずいだろうということで、プレイヤが殺すのは人間ではなく小鬼であるという設定が用意されることになったわけです。

しかしプレイヤの大半は設定など気にしません。非常にシンプルなグラフィックで描かれたスティックマンは、何も知らなければ人間にしか見えないものでした。こうしてエキシディの思惑とは関係なく、「デス・レース」は残虐ゲームとしての風評をどんどん高めていったのです。やがてその暴力性に対する批判記事が、雑誌などにも掲載されるようになりました。エキシディは暴力行為を推奨するような意図はないとの声明を発表しましたが、それもむなしく、ついにはゴールデンタイムの人気ニュースバラエティ番組「60ミニッツ」で特集が組まれるような騒ぎになります。

とはいえショッキングなものほど消費者の興味を惹きつけるのは世の常です。「デス・レース」に対する非難が高まれば高まるほど、皮肉なことにエキシディの売り上げは増加していきました。生産台数は当初予定の1000台を大きく上回り、最終的には1万台にも達しました。しかしその後、騒ぎが撤去運動にまで発展したため、「デス・レース」は大半が打ち捨てられる結果となりました。現在では数十台の現存が確認されるのみだといわれています。この撤去騒ぎは、1978年に日本にも飛び火しているので、ご存知のかたも多いでしょう。