Vector Scanの時代 (1977-1983)

アーケードにおける3D表現を大きく前進させたのは、ヴェクタースキャン (ランダムスキャン) ディスプレイという新技術でした。いや、新技術と書くと語弊がありますね。よく知られているように、ヴェクタースキャン・ディスプレイは原理的にはオシロスコープと同じもので、一般的なテレビモニタ (ラスタースキャン) よりもっと原始的な技術です。じっさいアーケードのヴェクタースキャン時代到来と前後して、コンピュータ・グラフィックスの世界では逆に、ヴェクタースキャンからラスタースキャンへの移行が進んでいました。それにも関わらず、アーケードが先祖返りを始めた理由は、まさに原始的であるがゆえに、当時のプロセサの限られた処理速度でも、高速・高精度の描画が可能だったためです。この利点は、画面の塗りつぶしがほとんど不可能という欠点を補って余りあるものでした。また半導体価格がまだ高かった当時にあっては、キャラクタをアニメーションさせるにあたってラスタースキャンほど大量のメモリを必要としないということも、重要なポイントでした。

アーケードにヴェクタースキャンを持ち込んだ最初の作品は、シネマトロニクスから発表された「スペース・ウォーズ」(1977) というゲームでした。これはMITを卒業したばかりのラリー・ローゼンタールという人物がシネマトロニクスに売り込んだもので、彼はこのヒットのあとにヴェクタービーム社を立ち上げ、第二作「スピードフリーク」(1978) で、さっそくヴェクタースキャンによる3Dゲームに挑戦しています。

「スピードフリーク」は「ナイトレーサー」以来の一人称視点ドライブゲームでした。立体的に描かれた路面や対向車のリアリティは、それまでのドライブゲームと一線を画するものだったのですが、商業的な成果はさっぱりで、わずか700台を出荷したきり、ヴェクタービーム社は暗礁に乗り上げてしまいました。この会社は結局、すぐにシネマトロニクスに再吸収されてしまいます。

ヴェクタースキャン黄金時代を支えたのは、実質的にこのシネマトロニクスとアタリの二社でした (ただしシネマトロニクスの開発陣は1981年頃にこぞってセガ傘下のグレムリンへ移籍し、一部はさらにゴットリーブへ行っています)。ヴェクトレックス/光速船もまた、あきらかにシネマトロニクスの薫陶を受けています

ヴェクタースキャンを3Dゲームに応用することにかけては、アタリのほうが圧倒的に貪欲でした。彼らは1980年から1981年にかけて、「バトルゾーン」「レッド・バロン」「テンペスト」の3作を投入しています。その急ピッチな開発を可能にしたのは、ジェド・マルゴリン氏が1978年に開発した「マスボックス」と呼ばれる3D演算システムでした。これのおかげで、戦車や飛行機で仮想空間を自在に行き交うという、それまで考えられなかった奥行きのあるゲームの開発が可能になったのです。しかしこの段階では、まだ「マスボックス」の真価は発揮されていません。これが全力稼動することになるのは、アタリのヴェクタースキャン最高傑作として名高い「スター・ウォーズ」(1983) や、未完の大作「ザ・ラスト・スターファイター」(1984) においてです (後者はラスタスキャンですが、とても1984年の作品とは思えない圧巻のグラフィックスを実現していたそうです)。

実際のゲームデザインを担当したのは、「バトルゾーン」と「レッドバロン」がエド・ログ氏。「アステロイド」のプログラミングも手がけたベテランのプログラマです。「バトルゾーン」はこれら3Dゲームのなかで特に評価の高かったもので、のちに米軍の軍事シミュレータにも転用されました。逆に「レッドバロン」は大不評で、わずか300台しか生産されませんでしたが、このゲームとの出会いが「ガンシップ」や「F-15 ストライクイーグル」を始めとするフライトシミュレータで名を馳せたマイクロプローズ社設立のきっかけになったといいますから、何が幸いするか分かりません。

テンペスト」は「ミサイル・コマンド」で名高いデイヴ・シューラ氏の作。これはアタリ屈指の人気作であると同時に、ヴェクタースキャン史上初のカラーゲームでもあります。彼は1984年には、世界初のポリゴン・ゲームとして知られる「アイ・ロボット」を手がけています。

ヴェクタースキャンは、技術としてはあっという間に陳腐化してしまったわけですが、プリミティヴな技術が逆に表現の幅を押し広げることがあるという、「枯れた技術の水平思考」を如実に見せつけた功績は、いつまでも色褪せることはないでしょう。