スプライトの起源 (1)

背景グラフィクスの処理とキャラクタグラフィクスの処理をハードウェアレベルで切り離し、あとから合成する―――という、いわゆるハードウェア・スプライト技術の確立は、ヴィデオゲーム史上もっとも重大なブレイクスルーのひとつに数えられます。1980年代のゲームが1970年代に比べて飛躍的に表現力を向上させることになったのは、この技術によって何十個ものキャラクタたちを縦横無尽に行き交わせることができるようになったためでした。1990年代にフレームバッファ方式が主導権を握るまで、ヴィデオゲームの進化は、スプライトの描画性能をどこまで伸ばせるかに懸かっていた―――といっても過言ではありません。

日本でスプライト機能が注目されるようになったのは、おもにファミコンの登場以降でした。それゆえファミコン以降のスプライト事情はよく知られているわけですが、逆にそれ以前の時代については、今日に至るまでまったく整理されていません。そのせいでスプライトの起源についても、誤った認識が定着してしまっています。

まずはっきりさせておきますが、最初にスプライト技術を実用化したのはナムコの「ギャラクシアン」でも、テキサス・インストゥルメンツVDP (TMS9918) チップでもありません。たしかにこの両者は、スプライト技術の浸透に筆舌しがたく貢献しましたが、技術としての下地を整えたのは、実はアタリなのです。この事実が見過ごされがちな理由は、アタリが自らの発明について不思議なくらい寡黙だったためでしょう。アタリ自身はこの技術を「モーション・オブジェクト」と呼んでいました。「スプライト」という用語はVDPチップの設計者たちが後から考え出したものなのですが、それが一般名として根を下ろしてしまったことからも、アタリの寡黙ぶりが分かると思います。アタリ以外では唯一ナムコだけが「オブジェクト」という呼称にこだわっていました。彼らはスプライトがどこから来たのか心得ていたのですね。