Steeplechase

アタリがスプライト技術を編み出したのは、1975年頃のことです。この当時、アタリをはじめとする最先端のゲームメーカたちは、画面上で複数のキャラクタを効率的に描画するにはどうすればいいかという課題に頭を悩ませていました。「ポン」ぐらい単純なゲームなら、キャラクタごとにいちいち表示回路を組んでいても、それほど負担にはならなかったわけですが、ゲーム内容やキャラクタグラフィクスが複雑化してくるにしたがって、そういうやり方では設計面でも製造コスト面でも無駄が目立ちすぎるようになってきたのです。アタリは1975年に、画面内周回型レーシングゲームのヒット作「インディ800」をリリースしていますが、これなどは八台のプレイヤ・カーひとつひとつに、まるまる基板一枚を割り当てていたといいます。

アーケード各社はそれぞれのやりかたで最適化に挑んでいたわけですが、アタリがここに賭ける意気込みは、他社とは一線を画していました。そうなるきっかけを作ったのは、ステフェン・ブリストウ氏です。彼は「ポン」のヒット後にアタリが雇い入れた最初のエンジニアで、1974年頃からずっと、アメリカンフットボールをヴィデオゲーム化したいという野望を抱いていました。その当時のヴィデオゲームといえば、移動するキャラクタはどんなに多くても5個程度しか登場しません。しかしフットボールとなれば、最低でも20個近くのキャラクタを一度に処理する必要があります。これを実現するためには、単なる最適化にとどまらず、表示技術を根本的に革新する必要があったわけです。

1975年10月、彼はその最初の成果を「複数イメージ位置コントロールのシステムと手段」という特許にまとめています。おそらく「スティープルチェイス」 (1975) あたりから実用化されたものでしょう。これは「インディ800」のおよそ半年後に登場した6人対戦ゲームですが、キャラクタ表示を含むすべての機能を一枚の基板に収めることに成功しているのです。そのうえ全キャラクタに継続的にアニメーションまでさせているのですから、まさに革新というほかありません (ヴィデゲームにおけるパターンアニメーションもまた、ブリストウ氏による同時期の発明で、この直前にリリースされた「シャーク・ジョーズ」で初採用されています)。しかし「ハイパーオリンピック」のハードル競技をもっとシンプルにしたようなゲーム内容は、当時としても単調すぎたのか、それほど注目は集めなかったようです。

ブリストウ氏の特許には、キャラクタを背景と合成するという概念はありません。つまりまだスプライトと呼べる技術にはなっていないわけですが、このキャラクタ表示の徹底的な合理化は、スプライトへの第一歩となりました。