Odyssey2

スプライト技術を導入した最初のヴィデオゲームがアタリの「タンク8」(1976) だったことは間違いありません。しかし半導体レベルで話をするなら、先に製品化に漕ぎ着けていたのはインテルだったことになります。彼らがスプライト機能を持つヴィデオチップ・8244、通称VDC (Video Display Controller) を完成させたのは、1975年のことでした。その当時インテルで働いていたエド・エヴェレット氏は『ハルシオン・デイズ』 (ジェームズ・ヘイグ著, 1997) のインタビュー中で、以下のように回顧しています。


まだ「ポン」が最先端で、マイクロプロセサも誕生したばかりという太古の時代に、私はインテルに勤めていました。この頃インテルは、マイクロプロセサが活躍できる市場の開拓を進めていました。1975年のことです。ヴィデオゲームがボールを打ち合うだけのものからプログラム方式へと自然進化するだろうことは、そしてそれが完璧にマイクロプロセサ向けの市場になるだろうことは明らかでした。当時Pentium Proのような最新鋭CPUの座に位置していたのは、4040と呼ばれる4ビットのプロセサです。しかしその処理速度だと、ヴィデオゲームで必要となるピクセル単位の描画処理をさせることは、荷が重かったのです。私たちインテルが8244、つまりスプライトを基盤とする初のプログラマブルなゲーム用チップを開発したのは、大雑把にいってそういう理由からです。これはインテルの最も優秀な人材たちが技術を結集して作り出したものでした。開発にはニック・ニコルス、サム・シュワルツ、スタン・メイザーらが重要な役割を果たし、テッド・ホフも理解を示していました。

8244は2系統のスプライト表示機能を備えた、ユニークなチップです。ひとつは自由にデザインしたキャラクタを横方向に4枚まで表示できる、ごく普通のスプライト機能で、インテル関連特許はこれを「マイナー・システム」と呼んでいます。もうひとつはチップ内部に収められた64個の固定キャラクタセットを、横方向に12個まで同時表示することのできるもので、こちらは「メジャー・システム」と呼ばれています。「メジャー・システム」はスプライトとしての用途より、得点の表示や、背景の補助を意図したものでした。8244の背景描画機能はなんとも粗末なもので、できることといえばグリッド表示、つまり縦横ラインやボックスを描くことだけだったのです。

せっかくのプログラマブルチップでありながら、自由にデザインできるのは結局「マイナー・システム」の4キャラクタのみ。したがって8244の最大の弱点は、どのゲームも似たような画面になってしまうことだったといえるでしょう。しかしこの弱点は、裏返せばコスト面の強みにもなりました。いわゆるビットマップ・グラフィクスを完全に排除したおかげで、当時きわめて高価な部品だったメモリチップを浪費することなく、そこそこの解像度 (といってもファミコンの半分以下ですが) を確保することができたのです。

まだ家庭用の「ポン」が出るか出ないかという1975年の時点で、マイクロプロセサ時代の家庭用ヴィデオゲームに必要な技術をこれほどまで見通していたインテルのスタッフは、恐ろしいまでの慧眼だったというほかありません。エド氏は続けてこう語っています。


次の問題は、このスーパーヴィデオチップを何処に売りつけるかということでした。アタリか、マグナヴォックスか? 選ばれることになったのは、ゲームに関係する重要な特許を握っている、フィリップス傘下のマグナヴォックスのほうでした。

しかしマグナヴォックスが8244を組み込んだ家庭用ゲーム機・オデッセイ2を完成させたのは、それから三年も後のことでした。なぜそれほどまで遅れることになったのか、詳しいところは分かりません。「スーパーヴィデオチップ」だったはずの8244も、その頃にはアタリやジェネラル・インストゥルメントの技術に追い着き追い越され、むしろ時代遅れのレッテルすら貼られかねない立場に置かれています。なんとも皮肉な話ですが、マグナヴォックスはそんな状況下でも北米だけで100万台のオデッセイ2を売り捌いたといいます。その健闘ぶりは、エド氏の意地に支えられたものだったといっても過言ではないでしょう。


オデッセイ2が生産に入ってから半年で、マグナヴォックスはゲームデザインの壁に突き当たりました。もう新しいゲームのアイデアが出てこないというのです。私は手伝いを買って出ることにしました。インテルに留まっているよりオデッセイ2のゲームをプログラムしたほうが、結果的にインテル半導体セールスを伸ばすことができる、とアンディ・グローヴ (訳注: インテル創業者の一人で、当時の製造責任者) には説明しました。オデッセイ2には8244だけでなく、インテルのROM, RAM, 8048マイクロプロセサが入っています。つまりインテル満載だったわけです。

エド氏は以降五年の間に、24本ものオデッセイ2用ゲームをデザインしました。これは当時発売されたオデッセイ2用カートリッジの、ほぼ半数にあたる数字です。実のところフィリップスは、最初の数本のソフトをリリースした段階で、ヴィデオゲーム事業からの撤退を決意していたのですが、エド氏の孤軍奮闘で売り上げは好転し、やがて決意を翻さざるをえなくなりました。彼はオデッセイ2の、そして8244の救世主ともいうべき存在だったのです。

エドエヴァレット氏が手がけた「K.C.Munchkin」。主人公キャラ (スカイブルー) とモンスター3体 (レッド、ブルー、グリーン) の4点が、自由にデザインされた「マイナー・システム」によるスプライトで、四隅のドットと下段の数字が「メジャー・システム」にあらかじめ登録された文字記号によるスプライト。迷路はグリッド機能による縦横ラインだけで構成されている。デザインは限られるものの、大量のスプライトを一括処理できるので、オデッセイ2はちらつきと無縁なシステムとして有名だった。ちなみにこのゲームは、オデッセイ2最大のヒット作でありながら「パックマン」の著作権を侵害したとして市場から消されることになったいわくつきの一作。コードに類似性のないゲームプログラムが著作権侵害判決を受けたのは、これがはじめてだった。