TIA

カートリッジを交換することによりゲームの種類を無限に増やすことができるという、いわゆるマイクロプロセサ方式の時代は、アタリVCSが発売される約1年前に幕を開けていました。その第一波となったのが、フェアチャイルドヴィデオ・エンタテイメント・システム (VES, のちチャンネルFに改称) と、RCAスタジオIIです。どちらもグラフィクスは、ベタ塗りのビットマップで表示していました。しかし前者は2キロバイト、後者も1キロバイトしかグラフィクス専用RAMを持っていなかったので、きわめて粗い画面に甘んじています (VES: 縦64横128ピクセル。スタジオII: 縦32横64ピクセル)。これらは当時の最新アーケードゲームと比べると半分以下の解像度で、アーケード移植を主眼に置いていたアタリにとっては、およそ問題外の水準でした。とはいえ半導体大手であるフェアチャイルドさえ2キロバイトしか用意できないものを、アタリにそれ以上用意できるわけもありません。何か妙案が必要でした。

ビットマップに代わる手段を模索するうちに、グラスヴァレーの開発者チームはふと、画面のすべてを美しく描画する必要はないということに思い至りました。考えてみれば、プレイヤはゲーム画面全体を隈なく眺めているわけではありません。視線は主としてプレイヤキャラクタや敵キャラクタなど、移動するキャラクタに向けられるものです。ならば背景の解像度は多少低くしても構わないだろうという理屈でした。

さいわいにして、当時のゲームはどのみちそれほど複雑な背景を必要としていませんでした。極端にいって、壁や障害物がそこにあることさえ分かれば、それで用は足りたのです。そういうものは大雑把に描いておいて、自分や敵のキャラクタだけはよりきめ細かいグラフィクスで表示する―――そのためには背景とキャラクタを別々に処理して、あとで合成するという仕組みが必要になります。つまりスプライト技術です。

ビットマップ描画にはもうひとつ大きな問題点がありました。頻繁に膨大な情報量を処理しなければならないため、CPUに懸かる負担が大きくなりすぎるのです。逆にいうと、背景を簡略化すればしただけ、CPUのパフォーマンスは向上したわけです。前回述べたように、インテル側のスプライト技術は、主としてこの目的のために生み出されたものでした。インテルのスタッフは、縦横ラインとボックスだけ描ければ背景は事足りると考えたわけですが、グラスヴァレー・チームはこの点ではさらに上手でした。アタリVCSはわずか20ビットのメモリ空間を巧みにやり繰りしながら、縦192ピクセル・横40ピクセルの擬似ビットマップを実現しています。

必要なメモリを1ビットでも減らそうという努力は、スプライト機構にも見て取ることができます。VCSは三系統・5枚のスプライトを、用途にあわせて使い分けるという、無駄のない仕組みになっています。

  • プレイヤ・オブジェクト:

    ごく普通のスプライト。自由にデザインしたキャラクタ画像 (8ピクセル幅/単色) を画面内に2枚まで配置可能。
  • ミサイル・オブジェクト:

    デザイン不可。正/長方形 (1ピクセル幅) を表示するだけの、まさに弾丸専用スプライト。画面内に2枚まで配置可能。
  • ボール・オブジェクト:

    表示内容そのものはミサイル・オブジェクトと同等。ただし「ポン」や「ブレイクアウト」ようなゲームで、ボールを滑らかに動かすための工夫が盛り込まれている。画面内に1枚のみ配置可能。
この構成からお分かりだと思いますが、アタリVCSはもともと「タンク」のような対戦射撃ゲームや、「ポン」のようなボールゲームに最適化された設計になっていました。それ以上の可能性はあまり期待されていなかったのです。したがってその製品寿命も、当初は三年が限度だろうと考えられていました。しかし実際にVCSブームに火が点いたのは、その寿命を超えたはずの1980年になってからです。アタリVCSのグラフィクス機能は、設計者が意図した以上に懐の深いものに仕上がっていたのです。

アタリがVCS専門に雇った最初のゲームプログラマであるラリー・カプラン氏 (のちのアクティヴィジョン創設者のひとり) は、プログラミングをはじめてすぐ、各「プレイヤ・オブジェクト」に2枚の分身を持たせることができるという事実を発見しました。これにより画面内に6枚までのキャラクタを、ちらつきなしで表示できるようになったのです。「この機能がなければ、VCSは発売後5年でとっくに消えていただろうね」彼はVCS最盛期に、そう語ったことがありますが、これは掛け値なしに真実でした。VCSが大ブレイクするきっかけを作った「スペース・インベーダー」は、分身技なくしては作り出せないものだったからです。

VCS版「スペース・インベーダー」(1980)。フェアチャイルドでVESのゲームプログラムを担当していたリチャード・マウラ氏が、アタリに移籍して手がけたもの。彼は「プレイヤ・オブジェクト」を、画面全体でではなく、横方向だけで6枚まで並べるプログラムテクニックを開発し、北米に「スペース・インベーダー」ブームが巻き起こった頃には、すでにプログラムをおおよそ完成させていた。しかし当初アタリ内部の人間は誰もこの移植を評価せず、上層部の目に留まるまで、しばらく放置されていたという。このあとマウラ氏はアーケード部門に移り、「スペース・デュエル」の開発に携わっている。画面は2人同時プレイモード時。
実のところ分身技は、試作段階のVCSにはできないものでした。グラフィクス機能をTIA (Television Interface Adaptor) と呼ばれるカスタムチップに集約する段階で処理能力に余裕ができたため、偶然可能になった技だったのです。VCSを歴史的なヒットに仕立てた真の功労者は、このチップデザイナだったといえるかもしれません。そしてその人物こそ、のちにアミーガの設計者として勇名を馳せることになるジェイ・マイナー氏だったのです。