Ballblazer / Rescue on Fractalus プロモーション映像公開

1983年7月。アタリ黄金時代を担った最高責任者レイモンド・カサールは、不法なインサイダー取引を行っていた疑いで米証券取引委員会に提訴されました。アタリの親会社であるワーナー・コミュニケイションズはこれを受けてカサールを解任、フィリップ・モリスの販売担当重役だったジェームズ・モルガンを招いて、その後釜を任せます。

モルガンの在任期間はわずか一年足らずで、しかも目立った功績を残していないので、アタリの歴史からは黙殺されがちですが、実のところ彼は赤字体質の改善や新製品情報のコントロール強化など、アタリ再起に向けてさまざまな改革を行っていました。多くの会社がヴィデオゲームからホームコンピュータへと転進していくなかで、あえて新型ゲーム機・アタリ7800の発売を最優先事項に据えたのも、彼の判断です。家庭用ヴィデオゲーム機市場は必ず蘇生する―――クラッシュの渦中で誰よりそれを強く信じていたのは、もしかするとモルガンだったのかもしれません。しかしその希望は、ワーナーのアタリ売却により、脆くも潰え去りました。

モルガンが打った具体策は、アタリ7800の推進だけではありません。彼はソフトウェアの面からも、家庭用ヴィデオゲーム機の世界に新風を吹き込もうとしていました。その軸となるはずだったのが、ルーカスフィルムとの提携です。ルーカスフィルムのコンピュータ部門はかねてよりゲーム開発に興味を示しており、1982年にアタリから多額の資金提供を受けて事業をスタートしています。ターゲット機はゲーム機ではなくパソコン (アタリ400/800)。ソフト販売はアタリが担当するという契約でした。

翌年後半、ルーカスフィルムはその最初の作品「ボールブレイザー」「レスキュー・オン・フラクタルス」の試作版をアタリに披露しています。アタリはその驚くべき技術力に強い感銘を受けました。どちらも今日の視点から見れば大したものではないかもしれませんが、当時これだけスピード感や奥行きのあるカラー3Dゲームは、 (一部のレースゲームを除いて) 家庭用には存在していなかったのです。

ところで試作版披露のさいに、アタリは両ゲームのコピーを取っていました。これが厳重に管理していたにも関わらず、どうしたものか外部に漏れ、すぐに全米の海賊BBSでばら撒かれるようになります。試作版はほとんど完成品に近いもので、流出は大きな痛手となりました。しかし思いがけず、ルーカスフィルムの実力を大いにアピールする好機ともなったのです。ルーカスフィルムに対する期待と賞賛は、発売前から大きく膨らむことになりました。

さてこの頃、アタリの新たな主力ゲーム機・アタリ5200は、コレコビジョンとの激しい競争で苦境に喘いでいました。次々とアーケードヒットを繰り出してくるコレコに対して、アタリはいささか弾数不足だったのです。このアタリ5200というマシンは、構造的にはアタリ800とまったく同じものでした。そこでモルガンらはルーカスフィルム作品を、まずアタリ5200で独占的に先行リリースすることにしたのです。今回ご紹介しているプロモーション映像は、そのプレスリリース時 (1984.5.9) のものです。両ゲームは期待に違わぬ反響を呼び、さまざまな雑誌で大きく取り上げられました。さらにこれを追って、同月21日にはアタリ7800の発売発表が行われます。製品はこの時点で、ほぼ出荷可能な状態にありました。

「アタリはヴィデオゲームの流行を終わらせない」―――そんな見だしの記事が『ビジネスウィーク』誌にまで掲載され、いよいよ本格的なアタリの復活が始まろうとしていた、まさにその矢先のこと。ワーナーはアタリの売却に踏み切りました。いったいなぜこのタイミングで…と思わずにいられませんが、ワーナーにはワーナーの事情があったのです。

同年3月、ワーナーはルパート・マードックによる買収の猛威に晒され、その防衛のために莫大な資金を投入せざるを得なくなり、突如として多額の借金を背負い込むはめになりました。今日メディア王の異名で知られるマードックは、この頃アメリカにおける足場固めを進めており、ワーナーをそのための標的にしようと画策したのです。ワーナーにはもはや、アタリの再建に注ぎ込む資金は残されていませんでした。それどころか、何か事業を手放さなければ自分自身が危ういところまで追いつめられてしまったのです。そうなると、極端に収益の落ち込んでいるアタリが切り捨てられるのは理の必然でした。北米ヴィデオゲーム市場の落日にとどめを刺したのは、ある意味ではルパート・マードックだったともいえるわけです。

こうしてアタリの大部分は、元コモドール最高責任者ジャック・トラミエルの手に渡りました。利益率の強引な見直しを図る新経営陣により、アタリ7800は予算の再検討を迫られ、結局ファミコン上陸後の1986年にまで発売がずれ込みました。アタリとルーカスフィルムの提携もご破算となり、ルーカスフィルムはエピックスと手を組むことになります。「ボールブレイザー」と「レスキュー・オン・フラクタルス」の発売もやはり1986年までずれ込みました。この2年の間に、時代は16ビット機の普及に向けて動き出しています。1983年当時のゲームでは、さすがにビッグヒットは望むべくもありませんでした。しかし「ボールブレイザー」はそれでもなお驚きを持って迎えられ、好評を博したわけですから、いかに先進的なゲームだったか分かろうというものです。

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