Nimotron

ゲーム専用コンピュータ開発の動きは、アヘドレシスタ以来長く途絶えていました。次なる成果が現れるのは、第二次世界大戦直前の1939年に開催されたニューヨーク万博においてです。このイベントにはニムをプレイする機械が登場しました。その名はニモトロン。インターフェイスも含めすべてを電化した最初のゲームマシンです。

ニモトロンが誕生する前年の1938年には、クロード・シャノンがデジタルコンピュータ開発の起爆剤となる重要な論文を発表しています。それはリレースイッチのオンオフだけで、どんな論理演算も可能になることを知らしめたものでした。この発表を契機に、あちこちで演算回路の研究が始まっています。完全リレースイッチ制御のニモトロンも、おそらくはその影響下で設計されたものだったのでしょう。ニモトロンはボウトンによるニム研究の成果を、ごく素直に電気回路に直したものであり、バベッジやケヴェドのゲーム研究にはほとんど (あるいはまったく) 影響を受けていなかったように見受けられます。

開発チームの中心はエドワード・ユーラー・コンドン。原子物理学の専門家で、後にも先にもコンピュータやゲームの開発史には名を見せない人物です。そんな彼が一時だけゲームマシンの開発に携わることになったのは、ちょうどこの時期にウエスティングハウス・エレクトリック社の研究ディレクタを務めていたためでした。ウエスティングハウスはニューヨーク万博にもっとも意欲をみせた民間企業のひとつで、ほかにも世界初のタイムカプセルや、会話するロボットといった未来感覚あふれる展示で、人々を魅了していました。
   

関連特許に示されたNimotronの全体像。上部の電球群に現在の配置状況が示され、 プレイヤは筐体のボタンを押して消灯する電球の数を指定する。この電球群をドット式表示装置と見倣してよいなら、ニモトロンこそ世界初の映像式ゲームマシンといえるかもしれない。
ニモトロンはこの万博でおよそ10万回の対戦を行っています。「石」の配置パターンはたった9種類しかなく、しかもそのすべてが理論的には先手 (プレイヤ) 必勝の構成になっていました。真剣に攻略を考えれば必ず人間が勝つはずだったのですが、それにも関わらずニモトロンの勝率は90%に達しています。当時の観客は本当に勝てるのか疑いさえしたそうです。

ニモトロンの公開期間はニューヨーク万博開催中の2年限りでしたが、戦後イギリスのフェランティ社が同じくニムの対戦を行うコンピュータ・ニムロドを作成し、1951年の英国博覧会やベルリン貿易博覧会に出展したりもしています。このときの人気も大変なものだったらしく、観衆は飲み放題のバーさえ無視してニムロドに殺到し、地元警察が群集警備に協力しなければならないほどだったというエピソードが伝えられています。

ちなみにコンドンは開戦後MITに赴いてレーダー研究に携わり、のちマンハッタン計画にアシスタント・ディレクタとして参加。しかし軍部の締めつけの厳しさに嫌気がさして2ヶ月で辞任したそうです。戦後は米軍の要請でUFO研究に関わることになり、その筋では有名な「コンドン報告」をまとめたりもしています。

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