ハンド・シミュレーション

ちょうどその頃アメリカで、チェスマシン研究に重要な転機をもたらすことになる、一冊の書物が出版されました。ノーバート・ウィーナの著した「サイバネティクス」です。同名の学問を確立したことで有名なこの大著のなかで、ウィーナはチェスをプレイする機械を作ることが可能かどうかについても論じ、そのための新しい方法論を示したのです。

この頃すでにノイマンが、チェスはミニマックス法によって完全攻略できるゲームであるということを解き明かしていたのですが、同時にミニマックス法を使用するチェスマシンの開発は、その当時の技術では不可能だということも分かっていました。現代のスーパーコンピュータをもってしてもまるで足りないほどの、途方もないメモリ量が必要となるからです。バベッジが100年前に直面したのと同じジレンマに、この当時の自動チェス研究もまた突き当たっていたわけです。

ウィーナが気がついたのは、ミニマックスのようなパーフェクト戦略だけがすべてではないということでした。彼のサイバネティクとはつまり、機械で人間を超えるのではなく、真似ようとする考えかたです。人間ならばチェスに勝ちもすれば負けもする。まずは普通の人間と適度に渡り合える程度の強さから始めてみるのも、無意味なことではない―――それが彼の論理でした。研究者たちはこれによって、必勝という呪縛から初めて解放されたのです。

ミニマックスに代わる手段として、彼は評価値という考えかたを提案します。先読みするのはせいぜい2〜3手先までにしておいて、そのなかで相手の駒を取ったりチェックをかけたりできる有利な手には高い得点を与え、その逆に不利な手には低い得点を与える。そうしてもっとも高い点がついた手を選ばせるという方式でした。これなら必要なメモリ量は現実的な範囲で抑えられます。

この方法を最初に実践したのがチューリングでした。彼はほんの数年前まで、機械が人並みにチェスをこなすようになるまでには100年以上かかるだろうと考えていましたから、ウィーナのアイデアには目から鱗が落ちる思いだったに違いありません。「サイバネティクス」が出版された直後から、チューリングはマンチェスタ大学の仲間たちとともに、1手のみの先読みに基づいて局面評価を行うチェス対局アルゴリズムを組み始めています。

彼らはほどなく、ふたつのアルゴリズムを完成させました。しかしマンチェスタ大学にはまだそれらを走らせることのできるコンピュータがありません。そこで彼らはアルゴリズム中の演算をすべて手作業で行い、人力で「動作」させるという荒業に打って出るのです。チューリングがハンド・シミュレーションあるいはペーパーマシンと名付けたこのやり方は、一手指すのに30分以上を要するという気の遠くなるようなものでした。しかも、そうまでして実行した最初のアルゴリズムたちは、決着をつけることができずに終わってしまいます。ですが彼らは挫けることなくアルゴリズムの改良を進め、1952年にはハンド・シミュレーションと人間の対戦を実現するところにまで漕ぎ着けています。