ストレイチイの再挑戦

プリンツがチェス研究を終えようとしていた頃、ストレイチイはマンチェスタ大学を訪れていました。彼は旧友のチューリングと彼のプログラマーズハンドブックに励まされながら、マークIでもう一度ドラフトにチャレンジしようと決心します。移植と改良は驚くほど迅速に終わったそうで、一夜にして完成したという説もあるほどですが、ともかくストレイチイは遅くとも1952年の6月までに、高速かつ完全なルールでドラフトをプレイするプログラムを動作させることに成功しました。一手指すのに要した時間は2分程度だったといわれています。

ストレイチイはこのプログラムを携えて、その年の9月にカナダ・トロントで開催された第2回ACM会議に出席しました。こうして彼の快挙は北米にも知れ渡ることになります。当時IBM社員だったアーサー・サミュエルは、完成したばかりのIBM 701を使って、さっそく同様のプログラムを作成しました。彼はその後何年にもわたってこのプログラムを改良し続け、やがてジョン・マッカーシイやマーヴィン・ミンスキイらとならぶ初期人工知能研究の重鎮となります。

ドラフトの開発と前後して、ストレイチイは学習型アルゴリズムを持つニムなどもプログラムしていたそうですが、その後やはりゲーム研究から遠ざかっていきます。専門家以上のプログラミングスキルを身に付けた彼は、もはや単なるアマチュアではいられなくなってしまっていたのです。かくてストレイチイは再び現場復帰することになり、後年はプログラミング理論の大家として名を馳せました。

ところでストレイチイのドラフトにはもうひとつ大きな特徴があるのですが、それについては次章で触れましょう。

(参考まで………マークIにはチューリングの提案によって、乱数発生装置が取り付けられていました。スタン・アウガルテン著「BIT by BIT」には、マークI開発チームを率いていたフレデリク・ウィリアムズが、これを使って簡単なギャンブルプログラムを走らせていたという記述があります。0-9までの数からどれかひとつを選んで、それが何回カウントされるかを当てるというものだったそうで、開発時期は不明ですが、これが汎用コンピュータで動作した最初のゲームプログラムだった可能性もありそうです。ちなみにウィリアムズは自分の好きな数字が出やすいようプログラムに細工していたとか。アウガルテンに言わせれば「これこそ世界最初のコンピュータ犯罪」ということです)