コンピュータ・ビデオゲームの誕生

ストレイチイのドラフトと同じ1952年に、EDSACにもコンピュータゲームが登場しました。こちらはアレクサンダ・シャフト・ダグラスという大学院生の手がけたチク・タク・ツー・プログラムです。

プログラミング環境整備の重要性にどこよりも早く気付いていたケンブリッジ大学では、1950年頃からEDSACのサブルーチン開発要員として、数人の院生たちによるエキスパート部隊が編成されていました。彼らはハードウェアの奥底にまで通じた、いわばEDSACハッカーとなり、普通のユーザなら考えつかないようなプログラムをいろいろと考案しています。ダグラスのチク・タク・ツーもそのひとつといえるでしょう。

いやもちろん、チク・タク・ツー・プログラムそのものに目新しさはありません。ドナルド・デイヴィスの業績は、ケンブリッジ大学でも知られていたはずです。その翌年には、同大学の機関誌で、ワイヤーと空き缶で自作できる6ポンドのチク・タク・ツー・マシンなんていうものが紹介されたりもしていました。いまさらチク・タク・ツーをプログラムしたところで、誰も驚きはしません。

しかし彼のチク・タク・ツーは、他のコンピュータゲームとは決定的に異なる特徴を備えていました。これはストレイチイのドラフトも同様です。それまでのゲームプログラムは、盤面あるいは駒の移動に関する情報を、テレタイプで紙面に出力していたのですが、このふたつのゲームは、盤面をブラウン管モニタに表示し、入出力すべてをコンピュータだけで完結させていたのです。すなわち世界ではじめてのコンピュータ・ヴィデオゲームになっていたのです。

ブラウン管出力を備えた最初のコンピュータは、定説ではWhirlwind (1951) ということになっているので、ヴィデオゲームの起源がそれ以前のマシンにまで遡るといわれても、にわかには信じ難いかもしれません (なにしろEDSACの開発者であるモーリス・ウィルクスさえ、コンピュータゲームの元祖は「スペースウォー!」だと信じているくらいです)。しかしWhirlwindがはじめて備えたのは、あくまでグラフィックス専用のブラウン管出力であって、それまでのコンピュータにも別目的でブラウン管出力が用意されてはいたのです。

    

EDSAC操作部。EDSACは約2キロバイト相当のメモリを持っており、オシロスコープ1台で560ビット分を監視できた。中央に見えるのは光電式の紙テープ読み取り機。写真はComputer Laboratory Archive Photos (Universit of Cambridge) より引用。
最初期の汎用コンピュータは、まだメモリ素子の信頼性がそれほど高くなかったために、メモリの状態をブラウン管に映し出して監視してやるのが一般的でした (あるいはウィリアムズ=キルバーン管のように、ブラウン管がメモリそのものだった)。メモリはドットの集合で表されていたため、そこに展開される映像は、今日いうところのビットマップ・グラフィックスになっていたのです。ただしもちろん、解像度はとてつもなく低く、EDSACの場合だとわずか35x16ドットしか表示できません。当然ながらカラーは単色でした。

EDSAC完成後まもない頃に、誰かがこのドットを使って絵を描いていたと、ウィルクスは自伝で証言しています。また原始的なアニメーションプログラムも、非常に早い段階で作成されていました。ダグラスがチク・タク・ツーを組む頃には、ドットで絵を描くという行為もそれほど突飛なものではなくなっていたと考えられます。彼がこのようなグラフィックスをチク・タク・ツーと結びつけたのは、人間とコンピュータの相互関係について論文を執筆するためだったといわれています。しかしその論文が具体的にどのような内容だったのかは、よく分かっていません。

ストレイチイのドラフトが映像方式だったことは、最近明らかにされました。ダグラスの功績は、近年EDSACシミュレータが登場するまで、海外のヴィデオゲーム史研究者の間でもまったく認知されていませんでした。ダグラスに関する研究はその後もあまり進んでおらず、彼がほかにゲームを開発していたかどうかは分かりません。ただ、このチク・タク・ツー・プログラムに言及している文献がほとんど見当たらないという事実は、彼の功績が (少なくともケンブリッジ大学の外では) それほど話題にならなかったことを意味しているといえそうです。

「スペースウォー!」より9年早かったコンピュータ・ヴィデオゲーム。いったい何故これが人気を集めなかったのでしょうか? ダグラスを最初に評価した一人であるデヴィッド・ウインタは「EDSACがケンブリッジ大学にしか設置されておらず、したがって大学外にプログラムが出回らなかったからだ」と主張しています。しかしこれは誤りで、実際のところEDSACにはLEO Iという兄弟機もありました。またすでに述べたように、チク・タク・ツーのプログラミング自体はすでに目新しいものではなかったのですから、他機種で同じものを組むことも難しくはなかったはずです。けっきょく、ただ画面を使用するだけではアピール不足だったということなのでしょう。ブラウン管ならではの表現内容を持つまでに至らなかったことが、このプログラムを埋もれさせてしまった要因ではないかと思います。    
EDSACシミュレータで再現したダグラスのチク・タク・ツー。シミュレータではダイヤルを使って配置場所を指定するが、ダグラスの証言によれば、実際には紙テープの読み取り装置に手をかざし、光線をさえぎることによって移動させていたという。