ゲーム, プレイヤ, ワールド : ゲームたらしめるものの核心を探る

デンマークのルドロジストであるジェスパー・ジュール氏が執筆した、ゲームの定義の決定版ともいえる論文 "The Game, the Player, the World: Looking for a Heart of Gameness" (2003) を翻訳しました。ゲームとは何ぞやという問いかけに対して、今のところもっとも有効であろう答えが、ここに示されています。

ゲームの定義というと「クロフォードのゲームデザイン論」「コスティキャンのゲーム論」の提唱したものが有名ですが、ジュール氏のそれは、昨今注目を集めている『ルールズ・オブ・プレイ』に示された定義を足掛かりに、さらに徹底した探求を試みたものです。氏はこの論文で、理論と実際の狭間を縫いあわせるべく、かつてないほど広範かつ緻密な定義の検証を行っており、その成果は「現存するあらゆるゲームに照応できる定義」という、先人たちのなしえなかった業績として結実しています。

論文が発表されてからすでに2年になりますが、いまのところ日本では識者の間でもそれほど話題になっていないようです。そもそも日本ではゲームの定義論じたいがあまり盛んでなく、少なくとも個々の研究に横の繋がりはありませんから、このような論文には着地点がなかったのかもしれません。そうでなくとも、ゲームの定義というのはそれ自体で何か役に立つものではありませんから、あまり意味のないものと考えられることがしばしばです。しかし少なくとも分析家や批評家といった人種にとって、定義の不在は深刻な問題であり続けてきました。ゲームとは何かという共通認識が成立していなければ、本質を深く見据えた議論などできるわけもないからです。ここを有耶無耶にしたままでは、ゲーム批評も学術研究もあったものではないはずなのですが、日本のゲーム研究はそのようなルーツ探求にずっと目を背け、いわば基礎研究を欠いた状態で現在まで来てしまいました。

そんな経緯もあって、これまで日本で注目を集めたゲームの定義といえば、古くはカイヨワやホイジンガの時代から、海外の研究者によるものばかりでした。彼らはそれぞれに優れた考察を展開していたわけですが、定義内容が著者に身近なフィールドへと偏る傾向があり、ある程度以上は言葉遊びの域を出るものではなかったといえます。ゲームの定義を名乗っていながら、ゲームとそうでないものの境界線を明確に示すことができないという致命的な弱点を、どの考察も抱えていたのです。パズル、ギャンブル、シミュレータといったゲームの隣接ジャンルが、ゲームとして認知されたり認知されなかったりするのはなぜなのか。そういう問題に対しては、いずれもからきし無力でした。

ジュール氏の定義はまず第一に、そのような境界領域問題に徹底的に自覚的であるという点で画期的です。氏はゲームに隣接するジャンルたちが「どうして」「どの程度まで」ゲームではないのかを明らかにしていきます。ゲームたりえているかどうかは結局のところ程度の問題なのだという事実を直視し、ボーダーラインケースに立ち位置を与えることによって、氏は従来のどの定義よりも柔軟な、かつ恣意的にならない定義を紡ぎ出すことに成功しています。なにしろこの定義は「人生はゲームだ」式のレトリックにさえ相応に対峙できてしまうのですから。

第二に画期的な点は、ゲームの成立要素を行動科学的なものとシステム的なものにはっきり分離して捉えていることです。従来の定義はどちらかに偏っていた―――というより、そもそもゲームはさまざまな側面から定義しうるということに無自覚でした。そういう問題をはじめてはっきり視野に入れたのが『ルールズ・オブ・プレイ』だったわけですが、この本の定義もまた、行動科学的な要素を意識的に切り捨てていました。それをもう一度拾い上げ、うまく再構成してみせたものが、ジュール氏の定義であるといえます。

氏はゲームの構成要素を「決定されたルール」「可変かつ数値化可能な結果」「結果に対する価値の付与」「プレイヤの努力」「プレイヤと結果の繋がり」「対価交渉の可能な結末」の六つに集約します。最後の「対価交渉の可能な結末」を除けば、ひとつひとつの要素は格別オリジナリティのあるものではありません。というよりむしろ、先人たちの挙げてきた要素を丹念に咀嚼し醸成したものです。それだけに論理としては堅牢ながら、先行研究に対する批判とも無縁ではいられないのですが、氏はもとよりこれらの要素を絶対視してはいません。六要素はいわばゲームの古典文法に過ぎず、コンピュータゲームはその改変を宿命づけられている、と考えています。これは任天堂の水木潔氏がコナミ在籍時代に示した「ゲームの変容に対応できる定義」という宿題を、うまくクリアできる視点ではないかと思います。

第三に画期的な点は、ゲームはメディアではないと断言していることです。メディアでなければ何なのか? ジュール氏は大胆にも、人間の同意のもとで生み出される実体のない状態機械 (オートマトン) である、と主張しているのです。人間はもともと無自覚に、ゲームをチューリングマシンに近いものとして作り上げていた、だからゲームとコンピュータはかくも相性がいい、というわけです。いささかご都合主義じみた言説に聞こえるかもしれませんが、コンピュータに実装不可能なゲームルールが現に存在していない事実が、何よりの裏付けであるといえます (今のところテーブルトークRPGは唯一の例外ですが、氏はこれをボーダーラインケースに位置づけています)。本質的にコンピュータでプレイしえないようなゲームを作り出さなければ、氏の説を覆すことは難しいでしょう。

なお状態機械としてゲームを分析する試み自体は古くからあるもので、さかのぼればチューリングの模倣ゲームにその原点を見出すことができます。ジュール氏が真に画期的なのは、状態機械としての分析をメディア論にまで発展させたことであるといえるでしょう。ちなみにジュール氏は、昨年の論文 "Time to play" で、この点をさらに掘り下げて論じています。