ゲームデザイナの誕生

近代まで職業的なゲームデザイナが存在しえなかった理由はごく単純で、ゲームを個人作品化する手だてがなかったからに他なりません。伝統的なゲーム遊具は、中世後期までにある種の汎用ゲームシステム化を遂げていました。チェス盤、バックギャモン盤、トランプ……といった定型遊具は、このころ多種のゲームに使用されることが珍しくなくなっており、新しいゲームの考案にあたって専用遊具が考案されるようなことは、滅多になくなっていたのです。つまりソフトウェア (ルール) のデザインがハードウェア (遊具) のデザインから遊離していたわけです。このソフトウェアはもちろん誰にでも手軽にコピーし改変できるものでした。

こうした汎用化の流れから多少なりとも外れていたのは、ルネサンス後期にイタリアにもたらされた「鵞鳥のゲーム」と呼ばれる絵双六くらいでしょう。絵双六は描き出される内容によってゲームのストーリラインが変化するわけですから、その意味でハードとソフトが不可分なものであるといえます。とはいっても作者はあくまで画家であり、双六のルールデザインには基本的に手を加えなかったのですが、18世紀中頃になるとその構図に変化の兆しが現れます。

転機をもたらしたのは、イギリスから登場したと見られる本格的な地図を使用した「ヨーロッパ旅行」という名の教育用絵双六でした。これが発端となって、既存のゲームを教育用品として再設計する動きが、ヨーロッパ各地に急速に広まっていったのです。絵双六を教育に使うという発想そのものは世界各地に見られるもので、日本でも江戸期には盛んに制作されていたわけですが、啓蒙思想という背景を持つヨーロッパのそれはより徹底したものでした。どうすればより効率的に高い教育効果をあげることができるか、教育者や出版人は真剣に考えたようです。その結果絵双六のゲームシステムそのものが変化しはじめ、19世紀には徳育のための人生ゲームや歴史教育のためのクイズゲームなど、絵双六を基本としながらも前例のないゲームシステムが考案されるようになりました。個人作品としてのゲームは、こうして確立されたわけです (欧米でゲームと教育が分かち難く結び付いているのは、こういう史的経緯があればこそです)。

同じ卓上ゲームでも、ウォーゲームは別の道筋から職業的なゲームデザインに到達しています。チェスをもっと戦争の実態に近づけようとする試みは、17世紀半ばのドイツにおいて始まりました。それから160年ほど後に誕生したフォン・ライスヴィッツのクリークシュピールは、マス目単位の移動システムから脱却し、実際の作戦計画にも使用されるほどまでシミュレーション性を高めることに成功します。ここでは高度に複雑化したルールブックが、個人作品としてのゲームを確立させたといえるでしょう。

また19世紀後半のイギリスでは、機械を使って既存のゲームを再現するという、それまでには考えられなかったような方向からもルールと遊具の一体化が始まっています。1890年代にコインオペレーション技術の普及が始まると、この動きはますます加速し、さまざまなスポーツを模したゲーム機械や、のちにスロットマシンへと発展する自動ポーカーマシンなどが生まれました。こうした流れのなかで、ビリヤードに似たバガテルというゲームは、ピンボール/パチンコの原型へと収斂していきます。これら機械じかけのゲーム機たちが、何にもましてルールと遊具を不可分にするものだったことは、述べるまでもありません。

三態のゲームデザイナ誕生は、いずれも近代という時代の様相と密接に結びついたものでした。教育用ボードゲームは先にも述べたように啓蒙思想の産物であり、近代的ウォーゲームの根底には決定論的な世界認識があります。メカニカルゲーム機の発明は、もちろん工業技術の発展によってはじめて可能になったことでした。ゲームデザイナとはつまり、ゲームの近代化を促進する人々のことだったのです。