遊びとしてのゲーム

ここまでに見てきたような動きは、いってみればモダニズムの第一波です。それは近代技術あるいは近代思想によって伝統的ゲームを再生産しようという潮流であり、本当の意味で伝統を塗り替えようとする試行ではありませんでした。古来人間はゲームに何かしら現実世界での意味付けをしようとするのが常で、だいたいにおいてそれは賭博か教育という形に落ちついていたわけですが、そういうゲームのあり方はこの時代に至っても変わっていなかった。あくまで実用性にゲームの意義を求め、それに適したデザインを優先する考え方は、むしろより強固になっていたとさえいえます。

しかしそんなのはゲーム本来の姿ではない――そう考える新しい世代のゲームデザイナたちが、やがて台頭してきます。変化はまずボードゲームの領域から起こりました。1880年代初頭、教育用ゲームの退屈ぶりにうんざりしたジョージ・パーカーというアメリカの少年は、ゲームは役立つものより面白いものであるべきだという信念を抱くようになり、それに沿って自分たちのゲームを作り始めました。そしてのちにパーカー・ブラザーズとして知られることになる会社を設立し、自らゲームの販売を手がけることで大成功を収めます。パーカー・ブラザーズは後年「モノポリー」を送り出すわけですが、これはまさに実用主義から娯楽主義への転換を体現したゲームだったといえます。「モノポリー」の原型となるシステムは、ヘンリー・ジョージの経済思想を広めるためのツールとして1904年に完成したものだったのですが、普及の過程でその意義は忘れられ、パーカー・ブラザーズが権利を手にしたときには、純然たる娯楽に変貌を遂げていたのです。

次はウォーゲームです。ウォーゲームはイギリスにおいて、遅くとも1900年までに高級な趣味として民間でもプレイされるようになっていました。しかし軍事用ルールをそのまま使用していたため、まだまだ市民にとっては敷居の高いものだったといえます。より多くの人がプレイできるようにするためには、いっそシミュレーションとしての実用性から離れてもいいのではないか。そう考えたのはSF作家H.G.ウェルズでした。彼は1913年に初の大衆向けウォーゲーム「リトル・ウォーズ」を出版します。これは平和主義者の立場から作り出された、純粋にゲームとしてのウォーゲームで、少年たちに戦争の本質を教え、それがいかに無益なことであるかを悟らせようという、ウォーゲーム本来の目的とは正反対の方向から生み出されたものです。発想はいぜん啓蒙思想的ではありますが、大衆娯楽としての道筋を付けたのがウェルズであったことは間違いありません。

カニカルゲームにおいては、実用主義への反発がより政治的な形で噴出することになります。コインオペレーション技術の導入以来、この分野は常にギャンブルと隣り合わせで発展していました。ゲームマシンの制作者たちは自分の発明がギャンブル要素のないスキルのゲームであることを、すでに1890年代には強調しはじめていますが、それはスキルのゲームでありさえすれば、小額の金銭をやりとりしても問題視されなかったからに過ぎません。

スキルであれ何であれペイアウトはまずいという風潮が浸透しはじめるのは、アメリカでスロットマシンが禁止されはじめた1910年代以降のことでした。さいわいにして都市部での電力普及がほぼ完了した1920年代には、電気部品ならではのギミックを次々投入できるようになり、その新奇さでプレイヤたちを魅了することも可能になりました。何の見返りももたらさない純粋なゲーム機械は、エレクトロメカニカル化によってようやく確立されたわけです。

こういう魅力に誰よりも自覚的だったのは、ピンボール産業の生みの親として知られるデヴィッド・ゴットリーブでした。彼はピンボールをギャンブルから決別させるべく、徹底したアミューズメント至上主義を貫きます。当時ピンボールにはまだフリッパーがなく、ゲームの性質はスキルよりもチャンスに偏っていたのですが、ゴットリーブは「ハンプティ・ダンプティ」以降ピンボールを揺るぎなきスキル指向ゲームに変質させ、ギャンブル化せずとも十分に魅力的なゲームになりうることを証明してみせたのです。

ジョージ・パーカー。H.G.ウェルズ。デヴィッド・ゴットリーブ。三人のパイオニアたちは、実用第一から娯楽第一への方向転換をきわめて自覚的に行い、しかも成功を収めたという点で共通しています。実生活に役立たない、ただ楽しませることだけを目的としたゲームを積極的に追究しようとするゲームデザイナは、彼らの時代以前には存在していなかったのです。