パックマン・ファミリの舞台裏

米国の「パックマン」ブームを支えたのは、ひとえにパックマン・ファミリたちの存在だったといっても過言ではないでしょう。ですがよく知られているように、彼らファミリはナムコが生み出したものではありません。アメリカで「パックマン」の権利を押さえていたバリー・ミッドウェイ社が、独自に発想したものです。いえ、厳密にいえば、ミッドウェイにとってさえ予定外の産物でした。最初にファミリの一員となった「ミズ・パックマン」は、一枚の改造「パックマン」基板がミッドウェイに持ち込まれなければ、おそらくは誕生することのなかったはずのものなのです。

「クレイジー・オット」と名付けられたその改造版は、ジェネラル・コンピュータ・コーポレイション (GCC) というゲームメーカの手によるものでした。卒業したてのMIT学生たちが設立したこの小さな会社は、当時米国のアーケード業界に、ちょっとした波紋を呼んでいました。彼らはゲームを一から作り出すのではなく、既存のゲーム基板に拡張キットをあてがって変種にしてしまうという、海賊版業者すれすれの荒業をやっていたのです (メーカー自ら改造キットを提供することはそれまでにもありましたが)。GCCの拡張キット第一弾である「スーパー・ミサイル・アタック」は、アタリの「ミサイル・コマンド」をターゲットにしたものでした。アタリはこれを著作権侵害とみなして告訴に踏み切っていますが、GCCは巧みに立ちまわり、逆に自らの技術力をアタリにアピールすることに成功し、やがてアタリのゲーム開発になくてはならない存在になっていきます。

「スーパー・ミサイル・アタック」に続いて彼らが開発したのが、「クレイジー・オット」だったわけです。しかし今度はアタリとの間に起きたような揉め事を避けるため、ミッドウェイにこれを買いとってほしいと交渉を持ちかけました。「クレイジー・オット」は、パックマンに足が生えたり、フルーツが画面上の至るところに登場したりと、細かな変更をいろいろと加える拡張キットだったそうです。コーヒーブレイクのデモンストレーションも、男女のクレイジー・オットが追いかけあいを演じて、最後にその子供が生まれるというストーリィに変更されていました。

ミッドウェイはGCCの力量を認め、「クレイジー・オット」をまっとうな続編に仕立ててみてはどうかと提案しました。そうしてこれにさらに手を加えて誕生したのが「ミズ・パックマン」だったのです。そう、「クレイジー・オット」のコーヒーブレイクは、「ミズ・パックマン」のそれと基本的に同じ内容ですね (拡張キットというアイデアもまた「パックマン・プラス」という形で日の目を見ることになります)。しかし海の向こうで勝手に続編が出たとなれば、ナムコがいい顔をするわけがありません。ミッドウェイは話がこじれないようナムコとの調整に骨を折り、「ミズ・パックマン」の権利をナムコに帰属させるということで発売の了解を得ました。

こんな風にして、なかば成り行きまかせに開発された「ミズ・パックマン」は、しかしミッドウェイの予想を遥かに上回る大成功を収めることになります。そのインカムはナムコの正式な続編にあたる「スーパー・パックマン」を大きく引き離し、ついには本家「パックマン」すら凌駕するほど普及する人気作になったのです。全米累計115,000台以上というその販売実績は、いまだ何者にも破られていません (「パックマン」は100,000台) 。

ミズ・パックマン」で勢いづいたミッドウェイは、パックマン・ファミリの成功をさらに拡大させていきます。同年にピンボールパックマンを融合させた「ベビー・パックマン」を送りだし、さらに翌年には、横スクロールする大迷宮をフィーチャした「Jr.パックマン」を投入しました。しかし度重なる独断専行で、ナムコは決定的に機嫌を損ねてしまったといいます。以後ナムコはミッドウェイではなくアタリとの関係を重視するようになっていくわけですが、どのみちミッドウェイはそろそろ、「ギャラクシアン」より続くナムコ依存体質から脱却を図らなければなりませんでした。新たにナムコからライセンスを獲得した「マッピー」が、アメリカ市場ではまったく奮わなかったからです。

ミッドウェイがパックマン・ファミリ戦略を推し進めた背景には、アニメの存在もあったと思われます。「ベビー・パックマン」のリリースは、アニメ放映開始の直後にあたる1982年10月。「Jr.パックマン」のアーケードデビューもまた、アニメの新キャラクタとして登場した翌月でした (もっともアニメのJr.は、パックマンの従兄弟という設定ですが)。当時なりにタイアップ効果を狙っていたであろうことは、想像に難くありません。

ミッドウェイはこのあともう一作、「プロフェッサー・パックマン」なる作品もリリースする準備を整えていました。しかしここに来て、その独断専行ぶりがナムコだけでなく、さらにGCCにまで噛み付かれることになります。GCCは、ファミリのコンセプトを考えついたのは自分たちであるとしてミッドウェイを提訴し、さらなる報酬を要求しました。法廷はその主張を認め、ミッドウェイは多額の追加報酬を支払わされることになります。こうしてファミリ拡大への意欲は挫かれ、アニメの放送もまた相前後して終了します。

いっぽうナムコはこのあたりから、逆にパックマン・ファミリの積極活用に乗り出します。その手始めとなったのは、海外版「パック&パル」である「パックマン&チョムチョム」だったようです。新キャラクタ・ミルを、アニメ版に登場するパックマンの飼い犬・チョムチョムに置き換えたものですが、正直なところこれが公式なものだったのか試験的なものだったのか、私にはよく分かりません。いずれにせよ、アニメへの歩みよりを決定的にしたのは、いうまでもなく「パックランド」(1984) です。それまで日本では影も形も見せなかったファミリやスーが、このゲームでいきなり登場し、モンスターたちの名前も「クライド」「ピンキー」「ブリンキー」「インキー」といった「ミズ・パックマン」由来の海外名で統一され、これでようやくミッドウェイの築いたパックマン世界は、本家にも認められるところとなったわけです。

ナムコと疎遠になりつつあったミッドウェイも、このゲームの販売権は確保しています。ミッドウェイは、アニメにあわせてアメリカ版のキャラクタを少し書き換え、スタート時にチョムチョムが画面を横切る演出なども加えました。こうしてやっとナムコとミッドウェイのパックマン戦略は噛み合ったわけですが、しかし皮肉にも、両社の協力関係はこれを最後に完全に途絶えてしまいます。「パックランド」発売の翌年、ナムコはアタリを傘下に収め、もはやミッドウェイを一切必要としなくなったためです。

ところがナムコは、せっかく手に入れたアタリを、さらなる海外進出の橋頭堡にしようとはしませんでした。それどころかアタリは、ナムコの海外ディストリビュータとしての役割をほとんど停止してしまいます。これは、ナムコが停滞感の漂う海外アーケード市場に興味を失いつつあったためだといわれています。以後「ローリングサンダー」あたりまで、長きにわたってナムコの作品が海外で認知されない時期が続きました。思えばミッドウェイとナムコの決別は、アメリカにおけるナムコ黄金時代の終焉を告げるものでもあったわけです。

(余談: ナムコゲームミュージックの開祖として日本で突出した評価を固めていったのは、まさにこの米国におけるナムコ空白期でした。ですから、「『ドルアーガの塔』や『リブルラブル』がゲームミュージック史のなかでいかに重要な役割を果たしたか」などと力説してみても、海外ではあまり理解を得られません。この空白期に、海外ではロブ・ハバードをはじめとするコモドール64の才人たちが頭角を現しはじめていたわけですが、日本では逆に、彼らの果たした役割が理解されていません。彼我の根本認識の違いは今日に至るまで尾を引いており、ゲームミュージックの歴史はいまだふたつに引き裂かれたままになっています)