Sharp Epcom & Gradiente 〜 ブラジルMSX史

ブラジルという国は、海外製の電化製品に世界最高クラスの関税を課していたことで知られています。このためブラジル国内のパソコン市場は非常に閉鎖的なものになり、日欧米のパソコンメーカ各社は、長年ここを開拓することができずにいました。この間にブラジルで幅を利かせていたのは、二十機種を超えるアップルIIのクローン機たちです。しかしクローンとはいっても、アップルIIはやはり高級機でした。一般大衆に手が届くようなマシンとなると、今度はZX80/ZX81のクローン機までグレードを落とさなければなりません。この機種は入門用としては優れていたものの、それ以外の用途ではほとんど役に立たないという難点がありました。そこまで極端に走らない、いわばMSXクラスのそこそこ使える低価格マシンは、まだブラジル市場には存在していなかったのです。

さしあたりこの空白を埋めることのできそうな機種は、1983年頃から出回りはじめたZXスペクトラムのクローン機ぐらいしかありませんでした。しかしそのスペクトラムに、思いがけない強力なライバルが登場します。日本から輸入されて来た、クローン機ではない100%ブランド品のMSXたちです。90%という凶悪な関税の壁に阻まれて、輸入パソコンは通常ブラジル国内では商売にならないはずでした。しかし日本のMSXだけは、これを克服しようとしていたのです。いったいMSXに何があったのでしょうか?

じつはブラジルには一ヶ所だけ、関税が免除される地域があります。そう、マナウス自由貿易区です。安い家電製品を求めて全国から買物客が集まるマナウスで、もっとも大きな影響力を持っていたのは、同区経済の牽引役ともいえる日本系企業たちでした。このため多くの日本家電メーカーから発売されていたMSXは、期せずしてマナウスでもっとも入手しやすいパソコンとなっていったのです。

日本の各社がマナウスでどの程度の宣伝活動を行ったのかは分かりませんが、とにかくMSXは静かに、しかし着実にブラジル国内へと浸透しました。EPCOMはこの様子を敏感に察知して、自社製のMSX開発に乗り出したわけです。同じことを考えた会社が、EPCOM以外にもうひとつありました。オーディオ機器メーカとして知られるグラディエンテです。この会社がMSXに興味を持ったのには、もうひとつ別の理由もありました。それまでグラディエンテは、アタリと提携してブラジルのヴィデオゲーム市場を牛耳っていたのですが、1984年に入るとアタリ2600が失速し、新作ゲームのリリースが極端に減ってしまっていたのです。普及の進むMSXは、これとは対照的にゲームカートリッジを充実させつつあり、2600の後釜を任せるのにも好都合でした。そのためグラディエンテは、MSXのゲーム機としての側面をことさら強調しました。

グラディエンテとシャープがMSXの発売をアナウンスしたのは、1985年9月にサンパウロで開催された、第五回国際情報見本市でのことでした。日本でMSX2規格が発表されて四ヶ月後だというのに、両社があえて旧MSXに狙いを定めた事実は見逃せません。これはMSXに性能よりもコストパフォーマンスが期待されていたことの顕れでしょう。

MSX発売にあわせて、まず11月にMSX専門誌『MSXマイクロ』が創刊しました。じっさいの製品がユーザーの手に届いたのはその少しあとで、まずシャープが12月、最初のHOTBITを350台出荷しました。グラディエンテのExpertは、HOTBITより早く店頭に並ぶはずでしたが、直前に不良が見つかり少しだけ出遅れています。ちなみにExpertは、ナショナルのCF-3000をベースにしたものですが、松下からどの程度の技術協力があったのかは不明です。

シャープとグラディエンテはともに大々的な宣伝キャンペーンを張り、最終的におよそ40万台のMSXが売れたといいます。このうちシャープの台数が15万、グラディエンテは逆算で25万となりますが、マナウスで売れた製品も加えれば、累計台数はさらに膨らむはずです。

ブラジルはオランダやスペインとならんで、MSXがもっとも成功した国のひとつとして知られているわけですが、40万台という数字は、成功というにはちょっと少ないのではないかと思われるかもしれません。ファミコンに圧倒された日本でさえ、100万台くらいのMSXが売れたわけですから。日本の総人口は当時約一億二千万で、ブラジルは約一億三千万人。単純に比較すれば、ブラジルでのMSXは、日本の半分以下の人気しか集めなかったことになります。しかしこの国のMSXは、大手ブランドから売り出されたはじめてのパソコン―――つまり日本でいえばPC-8001やMZ-80Kに近いポジションにあったことを忘れてはいけません。その点とブラジルの経済水準を考慮すれば、40万台は決して少なくないはずです。

とはいえ、グラディエンテやシャープにとっては、やはり十分な数字ではなかったのかもしれません。両社はマイナーチェンジを繰り返すばかりで、最後のさいごまでMSX2を発売しませんでした。痺れを切らしたユーザーたちの間では、MSX1をMSX2に変身させる「アップグレードキット」が流行するようになります。わが国でも日本エレクトロニクスが同様の「MSX2拡張アダプタ」を発売していましたが、ブラジルではアデミア・カチャノ (ACVS), DDX, MPO, DMXといった小さな周辺機器メーカーが、それぞれ思いおもいに製品を生み出していました。しかしこれらは本体に不具合をもたらすことが少なくなかったため、結局大半のユーザーはMSX1のままで使い続けたといいます。

関税の問題から公式な周辺機器の充実を期待できなかったブラジルでは、こういう独立系のメーカが、他にもさまざまなオリジナル商品を生み出していました (ブラジルのMSXシーンが現在でも独立心旺盛なのは、そういう時代の名残なのでしょう。昨年にはアンチMSXアソシエーション運動さえ起きています)。そのなかでも特に人気が高かったのが、MegaRAMと呼ばれるものです。これは通常の方法では動作させることのできない、メガROMカートリッジから吸い出したソフトを走らせるためのRAMカートリッジです。のちにヨーロッパでも同様のものが出回りましたが、こうした機器によるクラックの横行で、結果的にMSXゲーム市場の衰退は早まったといわれています。

ブラジルのMSX人気は、なにもゲームだけに支えられたものではありませんでした。この国ではMSX-DOSでCP/Mのソフトが使えるという点にも注目が集まり、一部企業はビジネス機としてMSXを採用していたのです。この方面では依然アップルII互換機が優勢でしたが、dBase IIやWordstarといった当時の人気ビジネスソフトが使えるとなれば、MSXでも不足はなかったわけです。

シャープは1988年、グラディエンテは1990年にMSXの販売終了を宣言しました。両社がMSXから手を引いた最大の理由は、ブラジルの経済改革によりMSXの絶対優位が失われたことにあります。ブラジル政府は1988年に「新工業政策」を打ち出し、90%の関税は1990年に43%まで引き下げられることになりました (94年には14.6%まで削減)。これによりアミーガやIBM-PC互換機なども、ブラジル市場進出のチャンスを掴みます。

シャープ撤退の裏にはもうひとつ、なにやらEPCOMとの間のごたごたもあったようです。両社の関係を示す資料が今日ほとんど残っていないのは、たぶんそのせいなのでしょう。グラディエンテの場合は、ファミコン/NESに目移りしてしまったという要因も無視できません。このころまでにブラジルにはセガ・マスターシステムが正式に上陸し、新しいゲーム専用機時代の到来を告げていました (ゲーム専用機の一番人気はいぜんアタリ2600でしたが)。グラディエンテもこの潮流に乗り、1990年に非合法なNES互換機・ファントムシステムを発売します。これはブラジルで出回った各種互換機のなかで、もっともポピュラーな存在となっていきます。グラディエンテは海賊版メーカでありながら、やがて驚くべきことに任天堂と正式に提携し、NESの製造・販売を請け負うまでになりました。ブラジルでのNES製造は2003年まで続きます。

こうして公式なサポートが失われた状態でも、ブラジルのMSX人気は向こう何年か持続しました。1995年頃に関連雑誌が相次いで休廃刊するまで、MSXは間違いなく主役マシンのひとつだったといっていいでしょう。

参考:

The MSX in Brazil (AdrianPage)

Hotbit e Expert (The MSX Brazilian Team)

世界のMSX商業誌一覧