バベッジのゲームマシン (4)

ニューヨーク万博で話題をふりまいたニモトロン (前回参照) は、人間と互角以上の「知性」を見せた最初の機械でした。しかしこれがバベッジの思い描いたゲームマシンだったといえるでしょうか? ニモトロンは、あまりにもニムというゲームに特殊化しすぎていました。それ以上には発展させようがなく、他のゲームにも応用が利かないものだったのです。その意味で、チク・タク・ツーの向こうに万能ゲームマシンの姿を見ていたバベッジの理想には、まだ及んでいなかったといえます。

バベッジの先見性を語り継ぐ者は、1930年代にはすでに見当たらなくなっていました。しかしニモトロンが誕生する数年前くらいから、バベッジ再評価の芽が息吹いてはいます。デジタルコンピュータ時代の先駆となるふたりの重要人物が、この頃それぞれ別個にバベッジの解析機関を再発見し、そこから多大な影響を受けていたのです。ひとりは英米におけるプログラム式汎用計算機の実質的な開祖、ハワード・エイケン。彼がハーヴァード・マークIとして知られる最初の汎用マシンを完成させたとき、自らをバベッジの後継者に喩えた話は有名です。しかし真にバベッジの後継者と呼ぶに相応しいのは、理念においても行動においても、そしてゲーム研究の姿勢においても、もう一人のほうでしょう―――そう、アラン・チューリングです。

この時代に至っても、バベッジを輩出したケンブリッジ大学だけは、なおバベッジの記憶を留めていました。ここでは彼の (おそらくは暗号解読に関する) 功績を、数学の講義を通して教えていたのです。チューリングバベッジについて知ることになったのは、まさにそのおかげでした。彼は解析機関にヒントを得て、いわゆるチューリング・マシンを発想したと考えられています。1936年の論文ではじめて示されたこの「思考する機械」は、今日ある汎用コンピュータのモデル像をいち早く示したものでした。