その後のコンピュータゲーム発展史

バベッジのチク・タク・ツー・マシン構想は、かくしてヴィデオゲーム時代の幕開けにまで連綿と受け継がれたわけですが、では彼の本来の夢、すなわちチェスをプレイするコンピュータは、結局いつ頃実現したのでしょうか? 簡単にその足取りを追って、締め括りにしたいと思います。

もっとも早かったのはおそらくソ連です。1956年、ソ連のBESMが動作させたというチェスプログラムについてのわずかな情報が、アメリカにもたらされました。これは故意でなければ人間が負けることはないという程度の腕前だったそうです。具体的な仕様は今日なお解明されていません。いっぽうアメリカでも、この年はじめてチェスをプレイするプログラムが、MANIAC Iで動作しました。まだ6x6に縮小したチェス盤でしか戦うことのできないものではありましたが、初心者相手なら勝利を収めることができたそうです。そして1958年には、MITのアレックス・バーンスタインという研究者がIBM 704を使って、ついにアマチュア級の強さを持つ完全ルールのプログラムを実現します。ここからチェスプログラムの研究は米ソ冷戦の、そしてチェス世界チャンピオン争いのもうひとつの舞台ともいうべき様相を見せながらヒートアップしていき、やがてあの「ディープ・ブルー」を生み出すことになるわけです。

このような状況は、とくにアメリカにおいて、ゲーム研究の正当化を後押しすることになったといえるでしょう。職場や研究機関でおおっぴらにゲームを開発していても非難されなかったアメリカの環境は、相当に特殊なものだったといえます。少なくともそれは、他のコンピュータ先進国 (イギリス、日本、フランスなど) では考えられない状況でした。冷戦はまた、シミュレータというコンピュータゲームのもうひとつの起源を育むものでもありました。冷戦、サイバネティクス、そしてバベッジアメリカでコンピュータゲーム文化が産声をあげる環境を準備したのは、つきつめればこの三要素だったといえるかもしれません。

[参考リンク]

おことわり: 20世紀以降のイギリスでは「チク・タク・ツー」より「ノーツ・アンド・クロシズ」のほうが一般的な名称になっていますが、本文中では便宜上「チク・タク・ツー」で統一しました。
(完)