コンピュータとモダニズム

「ゲームはまずゲームとしてあるべきだ」というパーカー以来のデザイン哲学を圧倒的に普遍化させたのは、いうまでもなくコンピュータの存在です。コンピュータがゲーム史において果たした役割は、近代芸術史において写真や映画が果たした役割とよく似ています。


伝統を新たにするためには、伝統をよく知らねばならない。写真という複製技術は、このプロセスを大衆化したのである。

同じことは、映画についてもいえる。

(中略)

過去のすべての伝統を総決算し、そのうえに新たな伝統を付け加えること。これこそがモダニズムの芸術運動の核心である。
たとえば、ジョイスは小説(『ユリシーズ』、1922年)において、T・S・エリオットは詩(『荒地』、1922年)において、ピカソは絵画(『アヴィニョンの娘たち』、1907年)においてそれをおこなった。
映画は、このプロセス(伝統の総決算)を大衆化したのである。

コンピュータゲームがやってきたのは、まさに伝統的ゲームの総決算を大衆化するということに他なりません。写真があらゆる視覚芸術を呑み込んだように、コンピュータは過去のあらゆるゲーム様式を呑み込みました。むろんコンピュータは、すべてのゲームを完全再現できるわけではありません。遺漏なく写し取ることができるのは、ルールのロジックだけです。そのあたりは写真が視覚要素以外の何も再現できないのと近いかもしれませんが、ともかくゲームの伝統を吟味するのに最低限必要となるものだけは保っていたわけです。

ゲームはまずゲームとして価値があるとみる近代的ゲーム像は、コンピュータゲームの普及によって完全に大衆化されました。かつて「スペース・インベーダー」が爆発的にヒットしたとき、何ら実益をもたらさないゲームが何故これほどまで人を熱中させるのかという疑問が日本社会に渦巻いたことがありますが、あれは当時日本にまだモダンなゲーム像が十分に定着していなかったが故のことでした。今日そんなことで気を揉んでいる人はどこにもいません。

かくして総決算は大衆化を遂げ、以降コンピュータゲームはどのゲームメディアよりもラディカルに伝統を革新し続けてきました。革新の中核をなしたのは、リアリティの追究と前例なきプレイ体験の追究という二本柱です。前者がもたらす革新は、少なくとも1995年頃までは至上命題であるかのごとく信じられてきたわけですが、精細なグラフィックスとオーディオがある程度達成されてしまった今日、もはや必ずしも変革を約束するものではなくなってしまっています。これに比べると前例なきプレイ体験のほうはまだまだ探求の余地がありますが、それにしても伝統を塗り替えるという段階まで到達することが、年々難しくなってきていることは確かでしょう。

革新を約束していたはずの前提が次第に無力化されていく――そしてふと気がついてみると、ゲームであってゲームでないものという、近代が培ってきたゲーム像を根本から揺さぶるようなものが、あちこちで検討されはじめている。この状況をポストモダン化と呼ぶのは、それほど的外れなことではないはずです。