吉崎栄泰 インタビュー

アミガに縁のある、忘れられたインタビュー記事をもう一本ご紹介しましょう。Internet Archiveに埋もれていた、LHA (LHarc) 圧縮の開発者として知られる吉崎栄泰氏のお話です。1998年頃公開されたもののようですが、2000年にはもう閲読できなくなっていたようなので、かれこれ5年ほど埋もれていたことになるでしょうか。残念ながら「パソコン通信をはじめて」の部分は (日本語では) アーカイブされていないのですが、それでも十分興味深い内容といえるでしょう。

海外ではアミガといえばLHA…というくらいのものなのですが、アミガを知らない人にはピンとこないかもしれません。というより、日本のPC-9801シーンで生まれたLHA圧縮が、どうやって、OSと言語とインターフェイスという三段階の壁を乗り超え、アミガの世界で歓迎されるに至ったのか、満足に説明されたことはこれまでなかったのではないかと思います。この背景を理解するには、1988年から1989年にかけて、圧縮ソフトの世界でいったい何が起こっていたのかを知っておく必要があります。

圧縮ソフト戦国時代の幕開け〜PKARC全盛期

圧縮プログラムの研究そのものは、コンピュータの歴史が始まった頃から行われていました。ホームコンピュータの時代に入ってからだと、CP/Mユーザーたちが早くからこの方面に着手しており、SQ.COM (1981) やLU.COM (1982) といったソフトがポピュラーな存在になっていました。しかしライトユーザーまでもが圧縮の必要性に目覚めるようになるのは、1985年頃以降のことです。この時期までに北米のパソコン市場ではフロッピーディスクドライブが浸透し、いっぽうでIBM-PC/XT、マッキントッシュ、アミガ、アタリSTといった機種が出そろうにいたって、16ビットパソコン時代がいよいよ本格化しようとしていました。ユーザー間でやりとりされるデータやプログラムのサイズは、こうした状況下で一気に肥大していったわけです。

この当時にはパソコン通信の普及も加速度的に進んでいたのですが、ファイルサイズの大型化は、誰よりもその利用者たちにとって頭の痛い問題でした。いうまでもなく、ファイルが大きくなれば、それだけダウンロード時間 (=課金額) に影響が及ぶからです。より効率的な圧縮ソフトの登場が望まれるなか、システム・エンハンス・アソシエイツ (SEA) 社のトーマス・ヘンダーソン氏は、MS-DOS用ARC (1985) をリリースしました。MS-DOSにはすでにSQやLUが移植されていたのですが、前年にUNIX方面で公開され話題を呼んでいたLZWのアルゴリズムを取り入れたARCは、これらとは一線を画する圧縮率を実現しており、シェアウェアでありながらSQとLUをあっさり駆逐してしまいます。時代の要求にうまく合致したARCは、こうして圧縮/展開ソフトとして初の商業的成功を収めました。

その翌年、フィル・カッツ氏はARCのアルゴリズムアセンブラで書き直し、飛躍的な高性能化を遂げたPKARCを、やはりシェアウェアとしてリリース。同じ頃、ARCより効率的な圧縮アルゴリズムを用いたフリーソフト・ZOOも登場していますが、PKARCはやがてこのアルゴリズムも取り込んで独自に発展を遂げ、圧縮ソフトの定番として、ほとんど独占的ともいえる地位を確立していきます。

PKARC牙城の崩壊〜次世代スタンダード争い

ところが1988年に、PKARCは著作権侵害でSEAから提訴され、将来的に配布を中止することに同意。その先行きにいきなり暗雲が垂れ込めることになりました。この事件は、ちょうどポストPKARCを目指して盛り上がろうとしていた日本のLARC/LZARI (LHarcのルーツにあたる圧縮ソフト) 開発陣にも驚きを与えています。奥村晴彦「データ圧縮の昔話」が、開発当時のPC-VANの様子を伝えているので、参考になるでしょう。

PKARCがもう使えないとなると、新しいスタンダードとなるものを探さなければなりません。旧来のARC? それともZOO? 確かにそういう選択肢を採ったBBSもありましたが、どちらにしても技術的退行であることは否めません。そんななかフィル氏は、独自の高性能アルゴリズムを用いた新しい圧縮ソフトを送り出すと宣言します。大勢はこれをある種のハッタリだと見なし、そんなに期待はしていなかったようですが、いざそのソフト・PKZIPがリリースされてみると、呆れるほど速やかに浸透が進み、いとも簡単にPKARCの後釜に座ってしまいます。この背景にはPKZIPのバランスのとれた高速・高圧縮技術だけでなく、フィル氏に同情的な世論の影響などもあったようですが、現在隆盛を誇るZIP形式の土台は、ともかくこのようにして築かれたわけです。

ところで、PKARCはアセンブラに大きく依存した設計だったため、ARCやZOOと違って、ほとんど他機種に移植されませんでした (アミガ版、UNIX版、VAX/VMS版の存在が確認されていますが、皮肉なことに、これらはSEAが訴訟を起こすのと相前後してリリースされることになります)。そういうわけで、MS-DOS以外の環境では、これに代わるデファクトスタンダードが生まれています。アップルIIのShrinkIT、マッキントッシュStuffITなどが代表的な例ですね。LHarcもまた、単に高性能だったためだけではなく、海外の有力な圧縮ソフトが十分に普及していなかったからこそ、あっという間に日本での標準的地位を獲得するに至ったのだといえます。

LHarcは登場翌年にあたる1989年に、はやくもUNIXに移植されて海を渡っています。アミガやアタリSTのように、まだ決定打となるような圧縮ソフトを持っていなかった機種 (…いや、SEAの訴訟さえなければ、その前年にリリースされていたアミガ版PKARCであるPKAXは、きっと決定打になっていたのでしょうが…) にとって、この登場は渡りに船でした。両機にはその年のうちにLHarcが移植されているのですが、これはまったく絶妙なタイミングだったというほかありません。というのは、ほとんど同じ頃にPKZIPがMS-DOS方面に現れており、LHarcの上陸があと一年遅れていたら、アミガやアタリのユーザーも先にそちらに注目していたであろうからです。実際、少し後に両機種用のZIPアーカイバも登場してはいます。しかしこれはLHarcと拮抗することさえできませんでした。一般的にはLHarcのほうが圧縮率が高かったためだとか、インターフェイスがあまり洗練されていなかったからだとかいわれていますが、LHarcにはなんといっても、タッチの差でも先にスタンダード化していたという強みが大きく作用していたはずです。

LHarcは、1990年頃には早くもアミガ/アタリSTの主流として君臨するようになります。アミガにLHarcを移植した最初の人物は、イタリアのパオロ・ジッティ氏でした。そして1992年にはアセンブラによる高速化を極めたLZが、カナダのジョナサン・フォーブス氏の手でリリースされ、その後継LXとともに、長くスタンダードとして親しまれることになります。ジョナサン氏は1995年にLHAを独自に改良・発展させた・LZXを生み出し、アミガのLHAは本家と異なる道のりを歩み出しています。

参考:
A Short History of Arching on Micros, Paul Homchick 1988
ZIP file history, Gary Conway
アーカイブ形式解説 (PKZIP以前の時代については誤認も多いですが)