Apple II Clones.com 公開

アップルIIといえば、IBM-PCに先駆けて実質的なスタンダード・アーキテクチャとなり、南米、東南アジア、東欧からソ連にいたる世界各地で多種多様な互換機が製造されていたことでも知られています。しかしそれら互換機の情報を集大成しようという試みは、これまでありそうでありませんでした。今年3月にオープンしたapple2clones.comは、その全体像を曝け出してくれる貴重なアップルII互換機ポータルといえるでしょう。ライセンス品からデッドコピーまで、現在確認されている約130機種を網羅しています。詳細不明のため写真だけ掲載というマシンも少なくないのですが、それにしてもこれだけ揃うと圧巻です。なんとまあ、やはり互換機の多さで知られるZXスペクトラムよりも種類豊富なのですね。

アップルII互換機の歴史

アップルII互換機の歴史は、合法互換パソコンという商品カテゴリが生まれるまでの歩みそのものであるといえます。最初のアップルII互換機は、1979年の西海岸コンピュータ・フェアに出展された、オレンジという名のマシンであるとされています。しかし、この機種に関する詳細はどこにも記されておらず、また市場に出回っていた形跡も見当たらないので、参考出展程度で終わったのではないかと思われます (後年登場する同名のクローンはおそらく別物でしょう)。

同年には、はじめてのオフィシャルな互換機であるITT 2020も登場していました。これはイギリスのアップルII販売代理店だったITTコンピュータ・プロダクトが、アップルと共同開発したものです。本家アップルIIのヨーロッパ版は、米国版とほとんど同時期に発売されていたのですが、ITT 2020は、ハイレゾモード用のクロック調整や、フランスのSECAM方式TV受信機対応など、さらに踏み込んだ調整を盛り込んだものだったようです。

1981年になると、台湾製をはじめとするノーライセンスなアップルIIクローン機 (あるいはキット) が出回りはじめます。JAPPLEと呼ばれる日本製クローンも、もとはこれから派生したものと考えられそうです。実際1981年頃にクローン機を組んだというかたは、日本にも結構いらっしゃるようですね。しかしこの時点ではまだ、アップルII互換機はあまり表立って取り沙汰されることのないものでした。

同じ頃、教育現場でのアップルII流通を受け持っていたオーディオ/ビジュアル機器メーカ・ベル&ハウエル社が、II plusの学校用カスタムモデルを製造したりもしていました。ベル&ハウエルが梃入れしていた事実は、アップルIIの成功を語るうえで無視できない要素といえます。アップルはこのおかげで教育市場での足場づくりに成功し、やがて自らの手で供給を開始。教育用パソコンとして不動のシェアを獲得するまでになっていったからです。クローン機の脅威やライバル機たちの急激な低価格化に翻弄されることなく、アップルIIがマイペースで勢力を保ち続けることができたのは、この方面での優位に助けられたところが大きかったはずです。

Franklin Ace - 違法判決を下された最初のパソコン

1982年、当時もっとも成功したアップルII互換機として知られるフランクリン・エース 100シリーズが登場します。これはアップルに無許諾で製造されたクローン機ですが、それでも当時は、おおよそ合法的な存在として認識されていました。というより、そもそもアルテア8800以降のパーソナルコンピュータ市場を支えたのは、幾多のアルテア互換機たちだったわけで、その流れからいってアップルII互換機もまた、ことさら違法性を強調されることはないだろうと信じられていたわけです。実際「BYTE」誌をはじめとする当時のコンピュータ雑誌も、アップルII互換機の広告を堂々と掲載しています。

フランクリン・エース100は、正面切って世に現れた最初のアップルII互換機のひとつでした。しかしアップルはその振る舞いを黙認することなく、発売後ただちにフランクリン社を告訴します。内蔵ROMに埋め込まれた専用プログラムがなければ使えないという点で、アップルIIはアルテア8800とは決定的に性格の異なるものでした。そしてフランクリンが純正のROMプログラムとオペレーティングシステムをそっくりそのまま使用していることを、アップルは見逃しませんでした。これらのプログラムが単なる機械的な部品ではなく、著作物にあたると主張することで、アップルは互換機の存在を退けようとしたわけです。

現代から見ればあまりに当然の主張ですが、当時はまだプログラムに著作権を認めるのが妥当かどうか、法解釈が固まっていませんでした。厳密にいえば、ソースプログラムは著作物だと認められていましたが、そこから生成されたバイナリプログラムまで著作物と認めていいものなのかどうか、疑問視される面があったのです。またこの時点では「基本プログラムは独創性の入り込む余地のないものであり、これに著作権を認めるのはおかしいのではないか」とも考えられていました。そのためアップルの請求は、一度は却下されることになります。

この棄却で勢いづいたものか、これ以降カナダ、韓国、ドイツなどからも、次々と互換機が登場するようになります。互換機というと単なる廉価版のイメージが付き纏いますが、とくにドイツの製品には、洗練ぶりにおいて本家を凌駕するものも少なくなかったといいます。このままいけば、アップルは大打撃を被っていたことでしょう。しかし1983年8月、裁判は差し戻され、判決は逆転しました。結局フランクリン・エースは違法商品であるということになり、フランクリンはコンピュータ産業から撤退。こうして北米におけるアップルII互換機の歴史は、一度幕を下ろすことになります。

Laser 128 - 合法アップルII互換機

さてこの判決は、裏返せば、ROM内のプログラムさえ著作権に抵触しなければ、互換機の製造・販売を妨げる法的根拠は、もはやなにもないと宣言するものでもありました (もちろん特許を持つ機種に関しては別ですが)。フランクリン対アップル裁判の行方をひっそりと見守っていたのは、IBM-PC互換機の開発を目論んでいた企業たちです。アップルの請求が一度却下された直後に、コロンビア・データ社は史上初のIBM-PC互換機・MPCを発売しました。これに数ヶ月遅れてコンパックが続き、コンパック・ポータブルをアナウンスしています。

コンパック・ポータブルには、従来の互換機にはない特色がありました。内蔵ROMが本家のコピーではなく、100%クリーンなリバースエンジニアリングを経て生み出された互換プログラムに置きかえられており、著作権問題で叩かれる恐れを完全に排除してあったのです (と同時に、基本プログラムに独創性の余地があることを完全に証明してもいました)。コンパックにこの互換プログラムを提供したフェニックス・テクノロジ社は、フランクリンがやがて辿り着くことになる結末を、最初から予見済みだったのでしょう。彼らの編み出した「クリーンルーム」方式は、コンパックの互換機を大成功に導き、今日まで続くPC互換機市場の礎を築きました。

コンパックの方法論は、もちろんアップルIIに対しても有効なはずでした。apple2clones.comのarticlesセクションに目を通すと、フランクリンもそのことは承知しており、互換プログラムを書こうとある程度努力していたことが分かりますが、彼らは結局挫折してしまいます。いえ、彼らだけでなく互換機メーカのほとんどすべてが挫折しました。アップルIIのBIOSは、IBM-PCとは比較にならないほどトリッキィなものだったのです。もしBIOS構造がもっと単純だったなら、IBM-PCの歩んだ歴史を、アップルIIが歩んでいたかもしれません。

それから数年して、以前教育玩具の話で触れた香港のVTech社が、ようやく互換プログラムの開発を成し遂げました。彼らは真に合法なアップルII互換機として、Laser 128を完成させます。本格的に北米市場での流通が始まったのは1988年頃からでした。この頃すでにアップルIIの人気はピークを過ぎていましたが、安価なうえに本家を凌ぐ高性能ぶりだということで、Laser 128シリーズは一躍評判となり、当時ローエンドでもっとも人気のあったコモドール128のよきライバルとして健闘するまでになります。その売れ行きの良さに慌てたアップルは、旧アップルIIのラインナップを四年ぶりに復活させ、対抗馬としてアップルIIc plusを発売したほどでした。