アップルII互換機の歴史

アップルII互換機の歴史は、合法互換パソコンという商品カテゴリが生まれるまでの歩みそのものであるといえます。最初のアップルII互換機は、1979年の西海岸コンピュータ・フェアに出展された、オレンジという名のマシンであるとされています。しかし、この機種に関する詳細はどこにも記されておらず、また市場に出回っていた形跡も見当たらないので、参考出展程度で終わったのではないかと思われます (後年登場する同名のクローンはおそらく別物でしょう)。

同年には、はじめてのオフィシャルな互換機であるITT 2020も登場していました。これはイギリスのアップルII販売代理店だったITTコンピュータ・プロダクトが、アップルと共同開発したものです。本家アップルIIのヨーロッパ版は、米国版とほとんど同時期に発売されていたのですが、ITT 2020は、ハイレゾモード用のクロック調整や、フランスのSECAM方式TV受信機対応など、さらに踏み込んだ調整を盛り込んだものだったようです。

1981年になると、台湾製をはじめとするノーライセンスなアップルIIクローン機 (あるいはキット) が出回りはじめます。JAPPLEと呼ばれる日本製クローンも、もとはこれから派生したものと考えられそうです。実際1981年頃にクローン機を組んだというかたは、日本にも結構いらっしゃるようですね。しかしこの時点ではまだ、アップルII互換機はあまり表立って取り沙汰されることのないものでした。

同じ頃、教育現場でのアップルII流通を受け持っていたオーディオ/ビジュアル機器メーカ・ベル&ハウエル社が、II plusの学校用カスタムモデルを製造したりもしていました。ベル&ハウエルが梃入れしていた事実は、アップルIIの成功を語るうえで無視できない要素といえます。アップルはこのおかげで教育市場での足場づくりに成功し、やがて自らの手で供給を開始。教育用パソコンとして不動のシェアを獲得するまでになっていったからです。クローン機の脅威やライバル機たちの急激な低価格化に翻弄されることなく、アップルIIがマイペースで勢力を保ち続けることができたのは、この方面での優位に助けられたところが大きかったはずです。