Laser 128 - 合法アップルII互換機

さてこの判決は、裏返せば、ROM内のプログラムさえ著作権に抵触しなければ、互換機の製造・販売を妨げる法的根拠は、もはやなにもないと宣言するものでもありました (もちろん特許を持つ機種に関しては別ですが)。フランクリン対アップル裁判の行方をひっそりと見守っていたのは、IBM-PC互換機の開発を目論んでいた企業たちです。アップルの請求が一度却下された直後に、コロンビア・データ社は史上初のIBM-PC互換機・MPCを発売しました。これに数ヶ月遅れてコンパックが続き、コンパック・ポータブルをアナウンスしています。

コンパック・ポータブルには、従来の互換機にはない特色がありました。内蔵ROMが本家のコピーではなく、100%クリーンなリバースエンジニアリングを経て生み出された互換プログラムに置きかえられており、著作権問題で叩かれる恐れを完全に排除してあったのです (と同時に、基本プログラムに独創性の余地があることを完全に証明してもいました)。コンパックにこの互換プログラムを提供したフェニックス・テクノロジ社は、フランクリンがやがて辿り着くことになる結末を、最初から予見済みだったのでしょう。彼らの編み出した「クリーンルーム」方式は、コンパックの互換機を大成功に導き、今日まで続くPC互換機市場の礎を築きました。

コンパックの方法論は、もちろんアップルIIに対しても有効なはずでした。apple2clones.comのarticlesセクションに目を通すと、フランクリンもそのことは承知しており、互換プログラムを書こうとある程度努力していたことが分かりますが、彼らは結局挫折してしまいます。いえ、彼らだけでなく互換機メーカのほとんどすべてが挫折しました。アップルIIのBIOSは、IBM-PCとは比較にならないほどトリッキィなものだったのです。もしBIOS構造がもっと単純だったなら、IBM-PCの歩んだ歴史を、アップルIIが歩んでいたかもしれません。

それから数年して、以前教育玩具の話で触れた香港のVTech社が、ようやく互換プログラムの開発を成し遂げました。彼らは真に合法なアップルII互換機として、Laser 128を完成させます。本格的に北米市場での流通が始まったのは1988年頃からでした。この頃すでにアップルIIの人気はピークを過ぎていましたが、安価なうえに本家を凌ぐ高性能ぶりだということで、Laser 128シリーズは一躍評判となり、当時ローエンドでもっとも人気のあったコモドール128のよきライバルとして健闘するまでになります。その売れ行きの良さに慌てたアップルは、旧アップルIIのラインナップを四年ぶりに復活させ、対抗馬としてアップルIIc plusを発売したほどでした。