海の向こうのMZ物語

スウィンドン・コンピュータ博物館には、わずかですが日本製パソコンの姿もあります。具体的にいうと、ソニー、サンヨー、東芝各社のMSXと、シャープのMZシリーズです。イギリスのMSX連合は、まったく奮わないまま撤退していったわけですが、MZシリーズはこれとは対照的に、大健闘していた時期があります。とくにMZ-80Kは、イギリスのパソコン黎明期を語るうえで欠かせない機種のひとつとさえいえるのですが、その奮闘ぶりはあまり知られていません。そこで今回はヨーロッパにおけるMZの歴史を紐解いてみました。

俗にいう元祖パソコン御三家、つまりアップルII, TRS-80, コモドールPET-2001は、いずれも誕生直後にイギリスへと渡っています。このなかで当初もっとも勢いがあったのは、アメリカ市場と同様に、やはりTRS-80でした。タンディ・ラジオシャックの誇る全国規模の販売店網が、イギリスでも有利にはたらいたものと考えられそうです。TRS-80に続いたのはコモドールのPET-2001ですが、彼らもまたアメリカと同様の戦略で教育市場に先回りし、こちらでトップシェアを獲得しています。のこるアップルIIはというと、価格の高さが災いしてか、日本やアメリカでほど熱狂的には受け容れられなかったようです。アメリカでのように教育市場でコモドールに取って代わることも叶わず、アップルIIは知る人ぞ知る名機という地位に甘んじていました。

TRS-80とPET-2001がニ大巨頭として凌ぎを削るなか、1979年10月、シャープはヨーロッパでのパソコン発売をアナウンスしました。日本版と違って完成型のみでリリースされたMZ-80Kは、コンセプト的にはPET-2001の二番煎じという印象を拭えないものでした。しかしもちろん、中身はまるで別物です。価格の面でもPET-2001よりひとまわり安く、またBASIC言語の動作は他のどの機種よりも高速だということで、MZ-80Kは発売直後からPET-2001に勝る評価を獲得しています。ただしキーボードの扱いづらさだけは大いに不評を買いました。イギリスでは後継機・MZ-80Cがリリースされなかったために、この問題は三年後のMZ-80A (MZ-1200) 発売まで足を引っ張ることになります。


MZ-80K (20K RAM) £380
MZ-80K (36K RAM) £423
MZ-80K (48K RAM) £475
PET 3008 (8K RAM) £389
PET 3016 (16K RAM) £454
PET 3032 (32K RAM) £600
TRS 80 Level II (16K RAM) £365
『PCW』 誌1980年10月号に掲載された広告の価格。History of the MZ-80K (sharpmz.org) より引用。なお当時は1ポンド=465円程度。

こうしてイギリスのパソコン市場は、実質的にTRS-80とMZ-80Kの一騎打ちという様相を呈しはじめました。販売網やソフトウェア資産などではタンディ・ラジオシャックがリードしていたとはいえ、コストパフォーマンスはほぼ互角。いっぽうMZ-80Kには、クリーンパソコンとしての柔軟性と、日本家電メーカー特有の信頼性という武器がありました。やがてMZ-80KでCP/Mが利用できるようになると、ソフトウェアの不足も解消され、MZの勢いはさらに加速。1981年までにシャープは、タンディ・ラジオシャック、コモドール、EACA (TRS-80互換機・ヴィデオ・ジェニーを販売) に次いで、イギリスで四番目の市場占有率を誇るまでになります。詳しくは分からないのですが、MZ-80Kはドイツでもまあまあ好評だったようです。シャープのドイツにおけるコンピュータ販売は、どうもイギリスより早かったらしく、ドイツではMZ-40Kさえ販売されていたという証言もあります。

同時期、シャープのライバルであるNECは、アメリカ市場に主眼を置いて海外進出を推めていました。しかしPC-8001A (PC-8001の海外仕様) はTRS-80の二番煎じという評判に甘んじてCP/Mマシンとして以上の評価を上げられず、PC-6001A (PC-6001の海外仕様) もまたタンディ・カラーコンピュータのクローン機とみなされて終わります (カラーコンピュータとPC-6001は同じヴィデオチップを採用しており、CPUは異なるものの、BASICレベルである程度互換性があった)。これに比べるとMZ-80Kは段違いの成功を収めていたわけですが、その繁栄は長く続きませんでした。1980年から1981年にかけて、イギリスのパソコン市場を巨大な地殻変動が襲ったためです。

まずイギリス国営放送の召し上げたアコーンのBBCマイクロが、国民パソコンとして教育分野を席巻するようになりました。さらにアメリカを震撼させたIBM-PCが上陸。安価なIBM-PC互換機は、イギリスでもやはり無視できない勢力になりました。しかし何よりも衝撃的だったのは、文字通り桁違いに低価格な入門者向けパソコン、すなわちシンクレア・ZX80/ZX81の登場でした。これらによって、イギリスの勢力地図は大幅に塗りかえられ、タンディ・ラディオシャックやEACAは次第に居場所を失っていったのです。コモドールもまた教育市場から追い出しを食らったわけですが、VIC-20や64といった新鋭機でホビー市場に転進し、生き残りに成功します。

いっぽうシャープはといえば、この時期にはPC-3101/3201やMZ-80Bといったビジネス志向のマシンに傾倒していました。PCシリーズの展開についてはまったく不明ですが、その後継機であるMZ-3500が雑誌等でほとんど黙殺された事実を考えると、あまりうまくはいっていなかったと見ていいでしょう。MZ-80Bのほうは、優れたCP/Mマシンとしてそれなりに評価されていたようです。ただ非常に高価だったため、やはり人気商品にはなりませんでした。

その後シャープは再びホビー機路線に目を向け、イギリスにもMZ-700を投入します。しかしその発売は日本より一年遅れました。低価格化競争が異常なまでに激化していたこの時期に、一年の出遅れは致命的だったといわざるをえません。じっさいイギリス市場では、コモドール64, ZXスペクトラム, ORIC-1, ドラゴン32 (タンディ・カラーコンピュータ互換機) といった、そこそこ以上の性能を持つ廉価機が勢力を伸ばし、MZ-700の入り込む余地をどんどん奪っていたのです。MZ-80Kが持っていた安価で堅牢なオールインワン機としての存在感も、いつのまにかアムストラッドCPCに持っていかれる始末でした。シャープに残されたのは、ビジネス市場に残された小さな隙間だけでした。1985年にはMZ-700の後継機としてMZ-800 (日本未発売。MZ-700とMZ-1500の中間的性質を持つ) を登場させていますが、これは完全上位互換機だったにも関わらず、イギリスではビジネス専用機という扱いになり、少数が流通しただけで終わっています。

蘇るMZ-800

ヨーロッパ本土に目を向けると、MZ-700/800はビジネス機ではなく、ホームコンピュータとしてそこそこ売れていたようです。イギリスやアメリカの外では、それほど低価格帯の競争が激化していなかったせいかもしれません。とくにドイツでは、かなりのユーザーを獲得することに成功しました。

それから数年後。冷戦終結が近くになった頃、シャープは東欧に販路を拡げ、MZ-800の在庫一掃を目論むようになります。こういう方針をとったのは何もシャープだけではありません。この時期には他にも多数の8-bitパソコンが東欧で放出されています。パソコンメーカー各社は、16-bit時代の本格化を前に、旧世代機の販売拠点を東欧へ移そうとしていたのです。

西側のパソコンを正面から受け容れた最初の国はハンガリーでした (1983年)。ここは数年にわたってコモドールが制します。次いで市場を形成したのはポーランドでした (1985年頃)。この国ではアタリXL/XEとZXスペクトラムが著しい成功を収めたほか、コモドール64もやはり結構な人気を集めました。三強のひしめくなか、MZ-800はあまり注目されずに終わります。

そしてこれに続いたのがチェコスロヴァキアです (1987年)。シャープはここに狙いを定め、大手に先駆けてこの国に乗り込んでいます。当時はまともにパソコンを扱いうる店などまだ全国に三軒ほどしかなかったそうですが、ともかくもMZ-800はこの国で正規に流通した最初のパソコンのひとつとなります。

しかし最終的にチェコスロヴァキア市場を制したのは、MZ-800ではなく、またもZXスペクトラムでした。スペクトラムの圧倒的な低価格と、安価なテープメディアを主体とする膨大なソフト資産は、東欧のほぼ全域で歓迎されました。人口千五百万余のチェコスロヴァキアでは、互換機もあわせて三十五万台以上が売れています。二番目によく売れたのはアタリXL/XEでした。しかし普及台数は二万台程度と、スペクトラムには大きく引き離されています。MZ-800はこれを追って、一万五千台で三位につけました。ちなみに四位はコモドール64ですが、販売台数はさらに一段少なかったようです。

ソフトウェア資産の少ないMZ-800が、アタリとほぼ互角の勝負を繰り広げることができたのは、有志たちの手によりスペクトラムの人気ゲームが多数移植されていたためだといわれています。スペクトラムはMZ-800と同じZ80マシンで、グラフィックやサウンドの性能も似たようなものということで、移植はかなりやりやすかったそうです。その一部のスクリーンショットこちらで見ることができますが、「ブルース・リー」や「マニック・マイナー」などの、細かく書き込まれた単色キャラクタは、まさにスペクトラムそのものです。

こうした移植活動に従事するグループは、最盛期には二十余りを数えました。大半はZXスペクトラムの画質 (8色) を忠実に再現していましたが、そのなかにひとつだけ、MZ-800の最高画質 (VRAM増設時の320x200 16色/640x200 4色) にこだわり尽くした異色のグループがあります。ヴラスティミール・ヴェゼリ氏率いるTRIPSです。先のスクリーンショットのなかに、手の込んだグラフィックスで目を惹く作品がいくつかあると思いますが、それらがすべてTRIPSの手によるものなのです。

TRIPSの代表作は、なんといっても「レミングス」(1992) でしょう。当時これに比肩しうる8-bit機版「レミングス」は存在していませんでした。16-bit機のオリジナルから丹念にトレースしたその緻密な画像は、当時のユーザーたちを感嘆させたに違いありません。翌年のコマンド選択式テキストアドベンチャー「プリンス・ジェイソン」を経て、TRIPSは1994年に、まだIBM-PCで発売されて間もなかった「レジェンド・オブ・キランディア」の移植を成し遂げています。正しくは移植ではなくて、「リターン・トゥ・キランディア」というタイトルが示すように、同じシステムを用いた私家版なのですが、TRIPSがこの最終作に込めた執念は、スクリーンショットを見るだけでもありありと伝わってきます。

中東欧では今日も8-bit機愛好家たちの活動が盛んですが、MZ-800ユーザーたちの活動は、残念ながらほぼ途絶えてしまったようです。しかしともかくも、チェコ/スロヴァキアのコンピュータ黎明期を語る上で欠かせない存在として、シャープの名前はイギリスでと同様、長く語り継がれていくことでしょう。

参考:

シャープ博物館 (Nibbles lab.)

sharpmz.org

MZ-800 RetroMuseum

emul8.xlabs.sk

Stanley: Last incarnation of ZX Spectrum+ was Delta computer (?)

Martin Banks: Banks Statement ('Personal Computer World' 07/81)