JAKKS Pacific, テクモと提携

いまやJAKKS Pacificの表看板ともいえるTV Gamesシリーズですが、今月はテクモとの提携による新作を発表、「テクモボウル」「テクモバスケットボール」「マイティ・ボンジャック」「ソロモンの鍵」「ソロモンの鍵2」といったファミコン時代の有名作五本を収録したコントローラ型ゲーム機を、2005年内に約20ドルで発売するそうです。まあまあのボリューム感ではありますが、「忍者龍剣伝」が外されているのが気になりますね。第二弾があると考えていいのかもしれません。

ところで今回の発表で筆頭タイトルとして挙げられているのは「テクモボウル」だったりします。このゲーム、ファミコン後期のテクモ作品ということで洗練された内容ではあるのですが、なにしろアメリカンフットボールが題材とあって、日本では知る人ぞ知るタイトルとして埋もれてしまいました。ところが海外に行くと評価は180度反転し、テクモ最大の成功作品として認知されているのです。販売本数は全世界で500万本超。「ティーンエイジ・ミュータント・ニンジャ・タートルズ」に迫る売れ行きだったと考えれば、その人気ぶりも把握しやすいと思います。

JAKKS Paccific, キャベツ畑人形の製造権を取得

上記と併せてもうひとつ、JAKKS Pacificが思いもかけない発表をしています。1980年代中頃に全米の子供たちを熱狂させたキャベツ畑人形 (キャベッジ・パッチ・キッズ) の製造販売権を獲得したとのことで、これから新世代キャベツ畑人形なるシリーズを売り出すのだそうです。旧世代機と直接関係する話題ではありませんが、現在の8-bitリバイバルをある面で象徴するJAKKSと、かつてヴィデオゲーム市場の終焉にとどめを刺したキャベツ畑人形との結び付きは、どうにも因縁めいて見えて仕方がありません。

コレコビジョンやテルスターといったヴィデオゲーム機とならんで、キャベツ畑人形はコレコの生んだ代表的なヒット作のひとつに数えられます。ブーム最盛期には日本でもツクダから販売されていましたが、クセの強い欧米的な容姿が仇になってか、それほど大きな話題にはなりませんでした (とはいえそれでも、発売後三ヶ月で15万個が売れたといいます)。一見すると何の変哲もない、むしろ古臭いくらいの印象を与えるデザインですが、その裏には目に見えないリアリズムが隠されています。この人形は、名前の示す通り「子供はキャベツ畑で生まれる」という欧米の伝承に基づいたものなのですが、巧みな生産工程管理により、まったく同じ姿形の人形はふたつとして存在しないようなになっていたのです。それぞれの人形には、まさに実際の子供であるかのように、デザイナ自らが記した出生証明書まで付属し、家族の一員的な存在感を積極的にアピールしていました。こうした要素が、爆発的なヒットを支えたわけです。

キャベツ畑人形が本格的なブームを巻き起こしたのは、1983年のクリスマス前後。奇しくも全米のヴィデオゲーム産業が急速に傾いていたころでした。以前私はヴィデオゲーム・クラッシュの一因として、アタリVCSの次世代機と目されていたコレコビジョンの戦線離脱を挙げましたが、生産が追いつかないほどのキャベツ畑人形人気も、実はコレコビジョンの切り捨てに一役買っていたのです。

キャベツ畑人形の成功があったおかげで、コレコはなんとかヴィデオゲーム・クラッシュの渦中に倒産せずに済んだ―――と、一般的には考えられています。しかしコレコビジョン市場はアタリVCS市場ほど深刻な値崩れには呑み込まれておらず、またコレコ自身は1983年に多くのヒットゲームを生み出していたこともあって、他と比べれば堅調でした。発売タイトル数はむしろ増加傾向にあったくらいです。この時期のコレコにとって最大にして唯一の失敗は、社運をかけて発売したコレコビジョン上位互換のホームコンピュータ・アダムのつまづきでした。このマシンは発売直後から製造遅延と欠陥多発で大不評を買っており、コレコを倒産寸前にまで追い込んでいたのです。

しかしキャベツ畑人形の成功による莫大な収益は、アダムの失敗を挽回して余りあるものでした (アダムの損失8000万ドルに対し、キャベツ畑人形関連の売り上げは1983年〜1984年だけで6億1700万ドル。最終的には10億ドル超)。しかしその類稀な成功ぶりは、同時にコレコを浮き足立たせる要因ともなったのです。コレコはありったけの資産と設備をキャベツ畑人形の増産に充てることを決定し、1984年4月、売れ行きに陰りの出てきたコレコビジョンの製造を終了してしまいました。発売予定に挙がっていたゲームタイトルも30本以上がキャンセルされています。

すでにアタリVCSが空前の成功を収めた後のこの時期になってもまだ、多くの企業はヴィデオゲームを一過性のブームに過ぎないものと信じていました。ホームコンピュータ時代の到来を前に、その風潮はむしろ加速していたとさえいえます。他のもののほうがよく売れるなら、ヴィデオゲームにこだわる必要はない。便乗組のサードパーティはもちろんのこと、本来玩具メーカーであるコレコもまた、そのような「常識的」判断を下していたのです。ヴィデオゲームメーカー自身が、玩具のいちジャンルとして以上にヴィデオゲームにのめり込む必然性を見出せなかったこともまた、ヴィデオゲーム・クラッシュという現象を生んだ精神的素因だったわけです。このような価値基準は、ファミコンブーム以前と以降を隔てるもっとも大きな相違のひとつといえるかもしれません。

いっぽう、コレコビジョンより圧倒的に売れ行きの悪かったはずのアダムは、引き続きサポートされました。ヴィデオゲーム専用機の時代はどのみちもう終わるが、ホームコンピュータの時代はまだこれからだ―――そういう思いがあったようです。もっともそれも、長くは続きませんでした。キャベツ畑人形への行き過ぎた投資は、結果的にコレコの首をかえって締めることになったのです。1984年のクリスマスには、ブームは早くも沈静化に向かいはじめていました。コレコはこれを読みきれず、やがて大量の過剰在庫を抱えることになったのです。キャベツ畑人形による損益は、その収益の三倍に上ったといいます。

コレコというのは実に波乱万丈な会社で、かつて「ポン」ブームの最中にも同じように過剰生産で倒産寸前に追い込まれたものの、エレクトロニクスゲームに転向して劇的に復活。そのエレクトロニクスゲームも何年かしてヴィデオゲーム熱に圧され、コレコはまたもや大量の在庫を抱えることになるわけですが、今度はコレコビジョンの成功でこれを克服―――そんな過去を辿っていました。しかし今度ばかりは一発逆転の救世主にも恵まれず、さすがに建て直しは厳しいものになりました。しかもこれだけにとどまらず、コレコは前後して「トリビアル・パスート」というボードゲームでも、さらに同じ失態を繰り返しています。完全に再建の目処を見失ったコレコは、1989年についに倒産。キャベツ畑人形の権利はハスブロの手に渡りました。その後マテルからトイザラスを経て、今ついにJAKKSの元へと辿りついたというわけです。

ちなみにコレコビジョンの在庫は、1985年の時点ですべてテレゲームスというヴィデオゲーム専門の通信販売業者 (当時) に渡っています。彼らはのちにDINAというコレコビジョン/セガSG-1000互換機 (韓国Bit Corporation製) を発売していますが、これはつい去年くらいまで購入可能でした。

ところでキャベツ畑人形は、当時コナミの手でゲーム化されたりもしています。「わんぱくアスレチック」を女児用にリデザインしたもので、コレコビジョンとMSXで発売されました。コレコはキャベツ畑人形を利用して、当時のヴィデオゲームとしては極めて珍しい、女児を対象としたTVコマーシャルも放映しています。

参考: Toyland: The High-Stakes Game of the Toy Industry, Sydney Ladensohn Stern & Ted Schoenhaus