バベッジのゲームマシン (1)

コンピュータはゲームマシンとして使うことができる―――この事実に最初に気がついたのは、コンピュータの父チャールズ・バベッジその人でした。彼が解析機関というプログラミング可能な自動計算機を設計していたことは有名ですが、それとは別に解析機関の機構を応用したゲームプレイ専用の機械も設計し、あと一歩で事業展開できる段階にまで行っていたことは、あまり知られていません。

残念ながら、ゲーム研究者としてのバベッジ像は、まだほとんど認知されていないのが現状です。しかしバベッジのアイデアは、スペインの発明家ケヴェドに受け継がれ、そこからシャノンやチューリングのコンピュータ・チェス構想にも間接的な影響を与え、ひいてはACEコンピュータによる世界最初のコンピュータゲームソフトに行きつくという、歴史的に見てたいへん興味深いものなのです。そこで今回から数回にわたって、バベッジを起点とするコンピュータゲームの知られざる発展史を追ってみたいと思います。

メルツェルの象棋さし

バベッジが「ゲームをする機械」にこだわるようになった背景には、当時さかんに製造されていたオートマトンと呼ばれる精巧な自動人形たちの存在があります。あたかも生命あるもののように振舞う人形たちの姿は、少年期のバベッジに終生忘れえぬほどのインパクトを与えました。のちに彼は当時お気に入りだった銀製バレエダンサー人形をオークションで買い求め、ひとかたならぬ愛情を注いだほどです。

学生時代のバベッジは、発明の才を磨く一方で、数学にも熱心に取り組んでいます。やがてケンブリッジの名門トリニティ・カレッジに入学し、卒業後は先進的な数学者として頭角を表しはじめました。その頃に彼は、ふとしたきっかけで再びあるオートマトンに強い興味を抱くことになります。それは完全自動でチェスをプレイする「ターク」と呼ばれる人形でした。

「ターク」―――トルコ人の姿を模していたためそう渾名されたこの人形は、ハンガリーの発明家ウォルフガング・フォン・ケンペレン男爵が生み出した、世紀の問題作でした。ミステリ通のかたには「メルツェルの象棋さし」と述べたほうが分かりやすいでしょう。エドガー・アラン・ポオが正体解明に知力を尽くしたことで知られるこのオートマトンは、ベンジャミン・フランクリンナポレオン・ボナパルトなど、当時の一級の頭脳たちを次々と打ち破り、18世紀後半から19世前半にかけて大変な物議を醸していました。青年バベッジもまた、これに興味を惹かれたひとりだったのです。



ケンペレン生没200年を記念して製作された「ターク」のレプリカ。写真は2004年4月12日付のChessbase Newsより引用。

「ターク」は本当のところオートマトンではありません。じつは内部に隠れた人間によって操作される、見せかけだけのチェス人形だったのです。奇術の専門家にいわせれば、大型装置を使った奇術の元祖にあたるのがこの「ターク」らしいのですが、複雑な機械仕掛けで巧妙にカムフラージュされたケンペレンのトリックは、初公開以来50年を経ても完全に見破られることはありませんでした。

後世、詐欺師のように語られもしたケンペレンですが、彼自身は問題の人形が「自動チェス装置」だなどとは一度も述べていません。そもそもこれは、オーストリア皇帝マリア・テレジアに娯楽として供するために作られた見世物だったのです。彼の言葉でいえば「ありふれたメカニズムによるイリュージョン」に過ぎないものでした。しかしありふれているはずのそのメカニズムが、誰にも解明できなかったわけです。

「ターク」は1769年に、オーストリア宮廷一の腕利きチェスプレイヤをねじ伏せて、華々しいデビューを飾りました。これが大きな評判を呼び、以降ケンペレンは人形とともにヨーロッパ諸国を巡業することになります。人形は行く先ごとに評判を呼び、とくにパリやロンドンで大きな話題となりました。

この人形と接した人は誰もが、どこかに人間が潜んでいるに違いないと疑ったわけですが、ケンペレンはそう主張する人々に「ターク」の中身を調べさせ、逆に人の潜む余地などないことを確認させています。そこまで見せても仕掛けが分からないというのですから並大抵のトリックではありません。見物人たちの多くは、人形が思考していると信じざるを得ませんでした。

ならばその仕組みはいかに? 純然たる機械の仕業と信じるには、この人形はあまりに人間的すぎました。なにしろチェスの対戦相手になるだけでなく、人々の語る言葉まで理解し、チェス盤を指差して質問に答えたりもしたのです。見物人のなかには、悪霊の仕業に違いないと口にする人さえいる始末でした。いずれにせよ、この時点で科学的究明の動きはまだ見られません。

ケンペレンの死後、「ターク」はメトロノームの発明者として知られるドイツ人、ヨハン・メルツェルに売り渡されます。彼は1818年から一年あまり、イギリスで巡業を行いました。「ターク」の謎は、産業革命たけなわのこの国で、「そもそも機械がチェスをプレイすることは原理的に可能なのか」という、より抽象的な懐疑へと結びつくことになります。この疑問を誰よりも真摯に追及したのがバベッジでした。

機械は判断しない

19世紀初頭のイギリスでは、精巧なオートマトンに対して、単なる物珍しさ以上の関心が集まっていました。完成度の高い人形は、東インド会社を通して高値で中国に売り捌くことができたからです。ケンペレンの人形に対してこの国で一歩踏み込んだ研究がなされたのは、このようなオートマトンによる実益と、産業革命による工学の発展とが、がっちり噛み合っていたためでもあるのでしょう。

当時イギリスで数多く出された「ターク」研究のなかで、とくに大きな影響力を持つことになるのが、ロバート・ウイリスという若い数学者の記した匿名のパンフレットでした。彼は「ターク」が見た目以上に大きな空間を隠し持っていることと、不必要に大きなノイズを出して動作していることに気付き、内部に人間を隠す方法を多角的に検証しました。そしてそれだけでなく、そもそも機械には特定の入力に対して特定の結果しか返すことができないのだから、さまざまなゲーム展開が想定されるチェスに巧く対応することなど不可能であるという原則を述べています。今風にいえば、機械はインタラクティヴにはなりえないというわけです。ピアノを弾くオートマトンもあれば、文字も書くオートマトンもある。しかしチェスをプレイするオートマトンは、そういうものとは根本的に違う。こればかりは人間の知性だけに許された領域に踏み込んでいる。彼はそう断言したのです。これは当時としては、きわめて説得力のある論理でした。

それから10年ほどのち、万華鏡の発明者として知られる光学の第一人者、デビッド・ブルースタ卿は、俗信・迷信の類を科学的に解剖した「自然魔術の書」という当時のベストセラーを著しています。ウィリスの説はこれに引用され、広く一般に知られるところとなりました。

「自然魔術の書」が出版された1835年、「ターク」はおりしも全米ツアーに出ていたところでした。この頃までにヨーロッパでの人気は下火になっていましたが、アメリカではいまだ人気衰えず、自動チェス人形は偉大な発明であるとして、多くの街で驚きをもって迎えられました。アメリカではかなりの知識人たちまでもが、純粋に機械であると信じてしまったようです。このころ雑誌編集者としてのキャリアをスタートしたばかりだったエドガー・アラン・ポオは、そんな状況を苦々しく見つめながら、ブルースタの「自然魔術の書」に目を通していました。

「自然魔術の書」もまだ十分に正体を解明しきれていないと考えたポオは、「メェルゼルの象棋さし」という有名なエッセイを執筆し、さらに一歩踏み込んだ謎解きを披露しました。「ターク」のトリックをめぐる論争は、このエッセイの発表をもってひとまず落ちついたようです。しかしポオの謎解きも、結局はウイリス流の「機械は判断しない」という主張に沿ったものに過ぎませんでした。

ポオはこのエッセイで、最高に高度な知的機械の代表として、当時イギリスで国家プロジェクトとして開発が進んでいたバベッジの階差機関 (彼の最初の自動計算機) を引き合いに出し、これすらも「ターク」に比べればはるかに下等なことしかしていないということを強調しています。皮肉なことに、バベッジがウイリスとは正反対の結論に達しようとしていたことを、ポオは知らなかったのです。たしかに階差機関自体は、単なる特定目的の計算機に過ぎません。しかしポオが「メェルゼルの象棋さし」を著したのと同じころ、バベッジはチェスのプレイまで可能にするであろう新型計算機・解析機関の構想を真剣に考えはじめていたのです。