ふたりのNutting

プロフェッショナル・アーケードのハードウェアは、1970年代のバリー/ミッドウェイを影で支えたデイヴ・ナッチング・アソシエイツ (DNA) 社の、高度なマイクロプロセサ技術の結晶とも呼べるものです。社名でお気づきかと思いますが、このDNAというのは、最初のアーケードヴィデオゲームのひとつとして名高い「コンピュータ・スペース」を世に送り出した、あのナッチング・アソシエイツと縁のある会社です。ナッチング・アソシエイツはもともと、ビル・ナッチングとデイヴ・ナッチングの兄弟が設立したものだったのですが、やがて両者の間に不和が生じ、会社は分裂。ビル氏の本家ナッチング・アソシエイツはシリコンヴァレーへと向かい、デイヴ氏のもうひとつのナッチング・アソシエイツは中西部へと向かいました。

ビル氏はその後、ノラン・ブッシュネル氏と邂逅してヴィデオゲームに開眼し、「コンピュータ・スペース」を発売。「ポン」ブームの渦中にも、亜流ゲームをいくつか繰り出しました。世界最初のカラーヴィデオゲーム「ウインブルドン」もそのひとつです。しかしその後の行方はよく分かっておらず、一説によるとビル氏は間もなく会社を畳んで、キリスト教の布教活動に従事するようになったといいます。

いっぽうデイヴ氏側のナッティング・アソシエイツ=DNAは、当初ヴィデオゲーム産業には関わろうとはしませんでした。中西部といえばピンボール産業の一大拠点です。DNAは「ポン」ブームを尻目に、この地でピンボールのソリッドステート化に取り組んでいました。1974年9月、デイヴ氏らは世界で初めてマイクロプロセサ方式ピンボールの実用化に成功し、その成果をバリーに披露しています。それまでの常識では考えられないような省スペース化を達成したその筐体は、バリーの度肝を抜いたといいます。

しかしDNAの技術力に着目したのはバリー以上に、そのアーケード部門子会社であるミッドウェイでした。彼らはマイクロプロセサを使うことで、同じようにしてヴィデオゲームの回路も単純化できるはずだと気付かされたのです。ミッドウェイといえば、当時すでにアミューズメント最大手の一角ではありましたが、まだどちらかといえばエレメカに力点を置いており、オリジナルなヴィデオゲームの開発にはたいへん消極的でした。「ポン」以降彼らが製造していたのは、おもにタイトーやラムテックのライセンス品です。そういうミッドウェイにしてみれば、面白いゲームを考え出すことより、製造工程の効率化のほうがよほど重要だったわけです。そこでミッドウェイはまず、タイトー「ウエスタンガン」 (1975) をDNAの技術で再設計させることにしました。こうしてTTL基板の「ウエスタンガン」は、アメリカではマイクロプロセサを採用した世界初のアーケードヴィデオゲーム「ガンファイト」へと生まれ変わることになったのです。