Baby Mark I 〜 Mercury

大戦後、ウイリアムズはアメリカにおけるENIACの開発状況を見聞し、コンピュータ開発者たちが効率的なメモリユニットの発明を待ち望んでいることを知ります。彼はレーダー用のオシロスコープをメモリユニットに転用しようという動きがあると聞き及び、自らもTREで研究を始めるのですが、その途中で古巣のマンチェスタ大学に教授として呼び戻されます。キルバーンも彼に付き従って移籍し、そこで1947年12月に、助手のジェフ・ツーティルとともに、メモリとして機能するブラウン管を完成させました。ウイリアムズ=キルバーン管の名で知られるこのメモリユニットは、RAMの状態をそのまま目視できるという、ある意味でコンピュータ用ディスプレイの元祖ともいえるものでした。

1948年―――ウイリアムズ=キルバーン管の動作試験を行うための小規模実験機 (SSEM), のちにBabyと呼ばれることになるコンピュータが、マンチェスタ大学で試作されました。設計の大要をまとめたのはキルバーンです。戦争の余剰物資をやりくりしながらなんとか稼動にこぎつけたそれは、しかし驚くべきことに長期の使用にも耐えるだけのものに仕上がっていました。そこでBabyをベースにした実用的なコンピュータが開発されることになります。この完成品 (通称マンチェスタ・マークI) は当時の科学長官に大きな感銘を与えました。彼はたった数日で政府とフェランティの間で出資協定を成立させています。お役所仕事としてはあまりにスピーディな交渉の背景に、ウイリアムズらとフェランティのTREからの縁が多かれ少なかれ作用していたであろうことは想像に難くありません。

フェランティの出した条件は、マークIを自社の商品としてリリースさせるということでした。そして商品としてのマークIは、1951年2月に完成しています。これはBINAC (1949) に次ぐ世界で2番目の商用コンピュータとなりました。BINACはのちに初の量産型コンピュータ・UNIVAC Iへと繋がっていくプロジェクトですが、採算性の面ではまったく破綻していました。その意味ではフェランティ・マークIこそ、本当の意味で最初の商用コンピュータといえるかもしれません。フェランティは1957年までに9台のマークIを出荷しています。

マークIの完成後、ウイリアムズはコンピュータ開発から手を引きはじめ、マンチェスタではキルバーンが主導的役割を担うようになります。1954年にはキルバーン指揮による後継機として、マークIIことMEGが完成しました。これは浮動少数点演算をハードウェア的に実装した最初のコンピュータで、マークIの30倍の速度で動作したといいます。

フェランティはウイリアムズ=キルバーン管を信頼性の高い磁気コアメモリに置き換え、マーキュリという名でMEGを商品化しました。しかしその販売態勢が整うより早く、浮動少数点演算とコアメモリを備えた別のマシンがIBMから発売されます。IBM 704 (1956) です。704は当時もっとも高速かつ高価なコンピュータで、マーキュリに比べても最高3倍の処理速度を誇っていました。アメリカ製品の技術的優位が顕在化しはじめるのは、このあたりからです。