イギリスの没落

しかしATLASは、イギリス製コンピュータの最後の輝きとなりました。フェランティは改良型のATLAS IIを発売したあと、大型コンピュータ事業から撤退します。その資産は1963年にICT (のちのICL) へと売却されました。

技術的には絶頂期にあったコンピュータ部門を、フェランティがあえて手放したのには、ふたつの理由がありました。ひとつはATLAS (と、同時期に開発したもうひとつのトランジスタコンピュータ・ORION) の販売実績が思ったほど伸びなかったこと。そしてもうひとつは、国際競争力強化を狙ったイギリス政府が、コンピュータ産業をICT/ICLに一本化させようとしていたことでした。ICTは米国製パンチカード装置のライセンス製造をルーツとする会社で、この頃までにGECやEMIといった競合を併合し、フェランティと同程度のシェアを持つ規模に急成長していました。つまり最大勢力どうしの合併だったわけですが、その成果は芳しいものとはいえません。というより、結局このような政府の余計なお節介こそが、イギリスを最前線から脱落させる根本要因だったといえます。劇的に多様化しつつある産業構造に、たった一社で対応するなど、しょせん無理のある話だったのです。

1964年―――ナノ秒クラスの桁違いに高速なスーパーコンピュータ・CDC 6600が登場したことによって、ATLAS神話に終止符が打たれます。この方面はCDCとCRAYという二大巨頭の天下へと収斂していき、IBMもスペリランドもスーパーコンピュータからは撤退していきました。キルバーンらは一応開発を継続し、1966年にはICLや政府から援助を受けてMU5という新型コンピュータの開発を始めていますが、これはもはや商品化を意図したものではありませんでした (もっとも設計は一部ICL 2900シリーズに反映されてはいますが)。

ところでトランジスタはコンピュータの高速化だけでなく、小型化・低価格化にも恩恵ももたらしたわけですが、フェランティは (のみならずスペリランドも) この方面での商品化に立ち遅れました。初期の有力メーカのなかでトランジスタ化によるローエンド路線を積極的に推進しようとしたのは、STRETCHで高速化に挑む一方で、抜かりなくIBM 1401を投入していたIBMだけです。スーパーコンピュータ開発で後塵を拝し、さらに低価格帯の需要にも素早く対応しそこねたことで、フェランティやスペリランドは急速に市場を失っていきました。

ただしフェランティのカナダ支社は、新市場に根を張ろうとするIBMの姿を目の当たりにして危機感を覚え、FP-6000という独自のメインフレーム機の開発を進めていました。メインフレーム部門がICT/ICLに売却された後、FP-6000をベースにしたICL 1900というシリーズが発売され、ヨーロッパではある程度ヒットしますが、これがなければイギリス製コンピュータは、早い段階で完全に競争力を失っていたかもしれません。ICLは2900, 3900とシリーズを発展させていったものの、シェアは減少し続け、最後には富士通に吸収されてしまいます。