ジュール氏への反論 (2) - フィクション性の位置付け

ジュール氏はフィクションの要素をゲームの成立要件に加えていないわけですが、この点に関しても不満を持つ人がいるかもしれません。氏は1999年に発表した修士論文 "A clash between game and narrative" のなかで、インタラクティヴ性と物語性は根本的に水と油の関係であるという主張を展開しています。といってもこれは、フィクションの要素を軽視していいという言説ではありません。沢月耀氏「ゲームはいかにして物語となるか」が指摘するのと同じ理由から、ゲームそれ自体は物語ではありえないということを述べているにすぎないのです。

人間は将棋やスポーツからさえ物語を読み取ることがあるわけですが、このようなルールセットと人間の関わりあいから生まれる物語と、シナリオや設定が演出する物語とは、往々にしてあちこちに矛盾を抱えながら共存しています。プレイヤがこうした状態を混乱なしに受け容れることができるのはなぜなのでしょうか? 映画や小説にはないゲーム特有の物語性というものを考えるためには、今後この点の解明が鍵になってくることでしょう。ジュール氏自身も今月刊行予定の新著『Half Real』において、より踏み込んだ考察を展開するのではないかと思います。

[追記]

一部でご指摘いただいているように、「対価交渉の可能な結末」という訳語は 'negotiable consequences' という語の意味を十分的確には伝えていません。'negotiable' なものには現実世界での精神的な影響までも含まれているので、「対価交渉」では即物的すぎるといえます。しかしどうにも適当な訳語が見つかりません。「対価」という言葉をできるだけ広い意味に解釈してください、と現時点ではお願いしておきます。