[2004.09.29追記]

前々回はエキシディの歴史とあわせて、世界初の3Dヴィデオゲーム「ナイト・レーサー」の誕生から、1970年代3Dの集大成ともいえる「スター・ファイア」が登場するまでの、3Dゲーム揺籃期について言及しましたが、今回はその後から、セガ体感ゲーム誕生前夜までを追ってみましょう。

Vector Scanの時代 (1977-1983)

アーケードにおける3D表現を大きく前進させたのは、ヴェクタースキャン (ランダムスキャン) ディスプレイという新技術でした。いや、新技術と書くと語弊がありますね。よく知られているように、ヴェクタースキャン・ディスプレイは原理的にはオシロスコープと同じもので、一般的なテレビモニタ (ラスタースキャン) よりもっと原始的な技術です。じっさいアーケードのヴェクタースキャン時代到来と前後して、コンピュータ・グラフィックスの世界では逆に、ヴェクタースキャンからラスタースキャンへの移行が進んでいました。それにも関わらず、アーケードが先祖返りを始めた理由は、まさに原始的であるがゆえに、当時のプロセサの限られた処理速度でも、高速・高精度の描画が可能だったためです。この利点は、画面の塗りつぶしがほとんど不可能という欠点を補って余りあるものでした。また半導体価格がまだ高かった当時にあっては、キャラクタをアニメーションさせるにあたってラスタースキャンほど大量のメモリを必要としないということも、重要なポイントでした。

アーケードにヴェクタースキャンを持ち込んだ最初の作品は、シネマトロニクスから発表された「スペース・ウォーズ」(1977) というゲームでした。これはMITを卒業したばかりのラリー・ローゼンタールという人物がシネマトロニクスに売り込んだもので、彼はこのヒットのあとにヴェクタービーム社を立ち上げ、第二作「スピードフリーク」(1978) で、さっそくヴェクタースキャンによる3Dゲームに挑戦しています。

「スピードフリーク」は「ナイトレーサー」以来の一人称視点ドライブゲームでした。立体的に描かれた路面や対向車のリアリティは、それまでのドライブゲームと一線を画するものだったのですが、商業的な成果はさっぱりで、わずか700台を出荷したきり、ヴェクタービーム社は暗礁に乗り上げてしまいました。この会社は結局、すぐにシネマトロニクスに再吸収されてしまいます。

ヴェクタースキャン黄金時代を支えたのは、実質的にこのシネマトロニクスとアタリの二社でした (ただしシネマトロニクスの開発陣は1981年頃にこぞってセガ傘下のグレムリンへ移籍し、一部はさらにゴットリーブへ行っています)。ヴェクトレックス/光速船もまた、あきらかにシネマトロニクスの薫陶を受けています

ヴェクタースキャンを3Dゲームに応用することにかけては、アタリのほうが圧倒的に貪欲でした。彼らは1980年から1981年にかけて、「バトルゾーン」「レッド・バロン」「テンペスト」の3作を投入しています。その急ピッチな開発を可能にしたのは、ジェド・マルゴリン氏が1978年に開発した「マスボックス」と呼ばれる3D演算システムでした。これのおかげで、戦車や飛行機で仮想空間を自在に行き交うという、それまで考えられなかった奥行きのあるゲームの開発が可能になったのです。しかしこの段階では、まだ「マスボックス」の真価は発揮されていません。これが全力稼動することになるのは、アタリのヴェクタースキャン最高傑作として名高い「スター・ウォーズ」(1983) や、未完の大作「ザ・ラスト・スターファイター」(1984) においてです (後者はラスタスキャンですが、とても1984年の作品とは思えない圧巻のグラフィックスを実現していたそうです)。

実際のゲームデザインを担当したのは、「バトルゾーン」と「レッドバロン」がエド・ログ氏。「アステロイド」のプログラミングも手がけたベテランのプログラマです。「バトルゾーン」はこれら3Dゲームのなかで特に評価の高かったもので、のちに米軍の軍事シミュレータにも転用されました。逆に「レッドバロン」は大不評で、わずか300台しか生産されませんでしたが、このゲームとの出会いが「ガンシップ」や「F-15 ストライクイーグル」を始めとするフライトシミュレータで名を馳せたマイクロプローズ社設立のきっかけになったといいますから、何が幸いするか分かりません。

テンペスト」は「ミサイル・コマンド」で名高いデイヴ・シューラ氏の作。これはアタリ屈指の人気作であると同時に、ヴェクタースキャン史上初のカラーゲームでもあります。彼は1984年には、世界初のポリゴン・ゲームとして知られる「アイ・ロボット」を手がけています。

ヴェクタースキャンは、技術としてはあっという間に陳腐化してしまったわけですが、プリミティヴな技術が逆に表現の幅を押し広げることがあるという、「枯れた技術の水平思考」を如実に見せつけた功績は、いつまでも色褪せることはないでしょう。

Raster Scanの逆襲 (1981-1984)

アタリがヴェクタースキャンに熱を上げていたころ、これと対照的に、ラスタースキャンによる擬似3Dゲームの開拓に力を入れていたのが、セガ/グレムリンでした。彼らにもシネマトロニクスから受け継いだヴェクタースキャンの技術があったわけですが、それを活用した3Dゲームは、「スタートレック」「タック/スキャン」(ともに1982) など、ごく僅かしか出ていません。

セガ/グレムリンがラスター方面で見せた最初の成果は、「スペースタクティクス」 (1980) と「ターボ」 (1981) です。それぞれ「スペース・インベーダー」と「モナコGP」を強引に3D化したような作品ですが、リアリズムよりもダイナミズムを優先するという、のちの体感ゲームシリーズに通じる思い切りのよさの萌芽として、注目に値します (ただし開発はどちらも海外のようです。1982年までのセガ作品は、大半がグレムリン系スタッフによるものでした)。

とくに「ターボ」は、スムーズな拡大/縮小処理でそれまでにないスピード感を生み出し、北米では好成績を記録したわけですが、この方法論をもっと洗練された形に仕立てたのは、セガではなくナムコでした。彼らの生み出した「ポールポジション」(1982) は、いうまでもなく、ポリゴン以前のあらゆる3Dレースゲームの原型といえる作品です。セガ/グレムリンはこの頃、むしろ「サブロック3D」「ズーム909」といったシューティング路線に力を注いでいました。「ズーム909」はSF映画「バック・ロジャース」を題材としたもので、海外ではその名で発売されています。このゲームには「スペース・ハリアー」の原点ともいえる要素が随所に散りばめられていました。

同時期のセガの功績として、もうひとつ忘れてはいけないのが、池上通信機と共同開発した斜め見下ろし視点の新感覚3Dシューティング「ザクソン」(1982.5) です。「ザクソン」は北米で大人気作となり、これに続いて同年10月には「Q*BERT」(ゴットリーブ)、翌年1月には「コンゴボンゴ」 (セガ) と、変わった視点のゲームが次々とヒットを飛ばしました。この路線ではアタリも大いに奮闘し、「クリスタル・キャッスルズ」 (1983) 「マーブル・マッドネス」 (1984) 「ペーパーボーイ」 (1984) といった特色ある作品を残しています。もっともジャンルとしての特殊視点ゲームは、アメリカのアーケード不況到来とともに一度息切れし、以降は思い出したようにぽつぽつ現れる程度になっていきます。

1983年から1984年にかけては、ハードウェアのヴィデオ処理能力がかなり進歩し、また半導体価格も急降下したので、ヴェクタースキャンは斜陽を迎えます。そしてまさにこの時を待っていたかのように、多くのメーカーがラスタースキャンの3Dゲームに挑戦しはじめるのです。コナミ「ジャイラス」「ジュノファースト」で怪気焔をあげ、テーカン「センジョウ」で複雑な奥行き処理を実現。また任天堂「パンチアウト!」で一人称視点スポーツゲームの基礎を築きました。日本で3Dゲームが注目を集めるようになったのは、この時期以降です。

なぜ初期の3Dゲームは日本で受けなかったのか

日本では1985年まで、「ポールポジション」を例外として、不思議なほどに平面ゲームばかり支持される傾向がありました。事実今回取り上げたゲームの半数以上は、日本ではマニア層にしか認知されていません。この差はよく「リアリティに対する国民性が違うせいだ」と片付けられてしまいますが、それ以上に注目すべきことは、基本的にアタリもセガも、米国でのマーケティングに重点を置いていたことでしょう。

1983年から1985年にかけて、アタリとセガマーケティング体質は大きく変化しています。アタリ製ゲームの認知度が国内で急上昇したのは、1985年にナムコ傘下に入ってからでした。そして同様に、セガの日本市場への積極性も、米国ガルフ・アンド・ウエスタン傘下の時代 (1969-1983) と日本CSK資本の時代 (1983-2003) では根本的に異なっています。国民性どうこう以前に、1980年代前半の日本は、まず3Dゲームの推進母体を欠いていたわけです。