Jay Miner

グラスヴァレーの設計したVCS試作機は、市販のワンボードマイコンと夥しい数の論理ICを組み合わせて作った、非常にハイコストなものでした。メモリにかかる費用を徹底的に節減する努力も、この回路をうまく簡略化できなければ無駄になってしまいます。できることならCPU以外の部品は、1個か2個のカスタムチップにまとめてしまいたいところでした。とはいっても、半導体の専門家ならぬアタリに、かくも複雑なチップをデザインすることはできなかったのです。

しかしアタリのスタッフは、家庭用「ポン」チップの製造を委託しているシナテック社に、とびきり優秀なチップデザイナが一人いるという話を聞きつけていました。これがジェイ・マイナー氏だったわけです。アタリ家庭用部門の開発責任者であるアラン・アルコン氏 (「ポン」の開発者) は、なんとかして彼の手を借りようと、さっそくシナテックに赴きました。


僕はシナテックに行って「この計画にはマイナー氏が必要なんだ」って言ったんです。
「そりゃだめですよ。彼はCPUチップデザイナのチーフなんですから」
「いや、君たちは分かっちゃいない。うちは是が非でも彼が必要なんだ。彼の給料を払うだけじゃなくて、君たちの工場がフル稼働し続けられるよう、うちのビジネスはすべてそちらに発注したっていい」
「そこまで言うなら手を打ちましょう」
マイナー氏はふたつのバッジを持つことになりました。シナテックのバッジとアタリのバッジです。こうして彼はアタリのチップ屋になりました。

アタリに招かれたマイナー氏は、1976年のうちにTIAチップの最終デザインをまとめました。完成したTIAには、描画関連の機能だけでなく、スコア算定機能や2チャンネルのサウンド出力も集約されています。アタリの期待には申し分なく添う出来だったといえるでしょう。しかしアタリはこのころ、VCSの製品化へと直ちに動き出すことができなくなっていました。同業者との熾烈な競争で体力をすり減らし、もはやVCSのように複雑な家庭用ヴィデオゲーム機を商品化できるだけの資金を確保できなくなっていたのです。アタリは会社そのものを売却することで、アタリVCSの製造資金を獲得しようと画策しました。そんな経緯で1976年10月、ワーナー・コミュニケイションズの傘下に入ったわけです。VCSの出荷がスタートしたのは、それからさらに1年後のことでした。