バベッジのゲームマシン (2)

バベッジが自動チェス人形「ターク」と対面したのも、やはりメルツェルによるイギリス巡業 (前回参照) においてでした。このときバベッジは28歳。王立協会の特別メンバーとして、さまざまな数学/物理学研究に勤しんでいた時期です。当時発表した論文のなかには、「ナイトツアー」と呼ばれるチェス駒を使ったパズルを、微分方程式によって解く方法の紹介などもあります。学生時代以来の熱心なチェス愛好家であり、幼いころからのオートマトン愛好家でもあった彼が、「ターク」に興味を覚えるのは、ほとんど必然だったといえるでしょう。

バベッジは「ターク」と二度対決しましたが、どちらも敗北に終わりました。しかしどこかで人間が操作しているということは確信しており、人形の後ろに隠し扉があるに違いないと推理したりしています (これはまったく的外れでしたが)。

Tit-Tat-To

「ターク」の虚実は、バベッジにとってそれほど切実な問題ではありませんでした。彼はそれよりもむしろ、自分なら実際に自動チェス人形を作ることができるかどうかという問題に興味を持ちます。バベッジが「ターク」に影響を受けてゲーム研究を始めたことを示す直接的な証拠は残されていないのですが、思考ゲームに関する彼の最初のエッセイが「ターク」との対戦から一年以内に記されているのは、たぶん偶然ではないでしょう。このエッセイ以前には、思考ゲームを数学的に攻略しようという試み自体存在しないも同然でした。となると、「ターク」の影響が小さかったとは考えにくいのです。

エッセイは未発表のもので、研究対象としてチェスではなく、子供たちの間で遊ばれている名もないゲームを取り上げていました。のちに「チク・タク・ツー」とか「ノーツ・アンド・クロシズ」といった名前で知られることになる、いわゆる三目ならべ (○×ゲーム) です。ゲーム研究をはじめてすぐ、彼はチェスが研究材料としては複雑すぎるということに気付き、まずとことん単純なゲームを材料にして、機械が人間の対戦相手になりうることを検証しようと考えたのです。そうして探し当てた、もっとも単純な思考ゲームがこれでした。

バベッジのゲーム研究は、ここで一旦中断します。彼の考案した階差機関の開発に対して、国家から資金援助が行われることになり、その完成が最優先されるようになったためです。階差機関はメカニズム面ではゲームプレイとなんら接点を持たないプロジェクトだったわけですが、彼にいわせればこれもまた「人間のもっとも低級な知的活動を代わりに行う機械」でした。この自動計算機への取り組みが、やがてゲームをプレイする機械とも接点を持つようになっていくことを、このとき彼が予見していたかどうかは、定かではありません。

しかし階差機関の開発にはさまざまなトラブルが付きまとい、計画は思うように進展しませんでした。開発は1820年代前半に始まりますが、1830年代前半には金銭問題のもつれから製作中断を余儀なくされ、1840年代前半にはついに政府からの資金援助も打ち切られることになります。ここで計画は完全に破綻しました。

解析機関

バベッジは階差機関の挫折と前後して、プログラム方式を採用した次世代の自動計算機、すなわち解析機関の設計に着手しています。そのパーツを一通りデザインし終えたあと―――それはちょうど政府が階差機関を見放した頃でもあるのですが―――彼は20年前にやりかけていたゲーム研究を再開しました。これまでの蓄積を活かして「ゲームをプレイする機械」を具現化できるかどうか試そうと考えたのです。

そもそもチェスをはじめとする思考ゲームは、本当に人間の理知がなければプレイできないものなのか。彼はまずこの点を明らかにするべく、あらゆる階級・年齢層の人々に意見を求めています。「そりゃもちろん必要だろう」というのが、ほとんどの回答でした。「そうでないと、オートマトンにもプレイできてしまうじゃないか」とわざわざ付け足す人もいたそうです。こうした認識の背景には、10年近く前に出版された「自然魔術の書」の影響もあったのでしょう。数学に精通した人のなかには、機械が優秀な対戦相手になり得る可能性を認める者もわずかながらいたそうですが、それもあくまで可能性だけの話であって、彼らもまた、実際に機械を設計することなど、いかに単純なゲームが対象でも不可能だと考えていたそうです。

しかしバベッジ自身は、周囲の意見に囚われることなく、「ゲームをプレイする機械」の実現に向けて、着実に歩を進めていきます。1844年には対戦型の思考ゲーム全般に共通する法則を論文として発表し、世界ではじめてゲーム木を使ったゲーム分析を行いました。そしてこのゲーム木から局面に応じて最良の手を探し出すアルゴリズム―――今日いうところのミニマックス法―――を用いれば、機械でも人間に勝利しうることを論証してみせるのです。あまり知られていないことですが、彼はまたゲーム理論の父でもあったのです。

(ちなみに歴史上はじめてミニマックス型のゲーム戦略に言及したのはバベッジではなく、フランスのジェームス・ウォルドグレイヴという人物で、1773年に「le Her」と呼ばれるカードゲームを二人でプレイする場合の解法を記していたそうです。しかし彼はこれを「確率に左右されるカードゲームでは通常役に立たない戦略」と結論し、他の思考ゲームへの応用を考えることなく終わっています)

このときまでに、解析機関の基本設計は大部分まとまっていました。バベッジにいわせれば、解析機関は「記憶」し、それに基づいて「先読み」できる機械です。そして彼は先の論文で、思考ゲームに必要な知性を、このふたつの能力に還元することに成功しました。ここまできたら、あとは実際にゲームマシンを設計するだけです。

オートマトン時代の終焉

バベッジの当初の目標は、むろん機械にチェスをプレイさせることでした。しかしミニマックス法でチェスをプレイする場合には、膨大なメモリが必要となります。フルスペックでも1000個の数値 (10進数50桁) しか記憶できなかったとされる解析機関は、明らかに能力不足でした。こうなるとチェスは諦めざるをえません。

しかしバベッジはチク・タク・ツーなら、わずかなメモリしかなくても人間と互角に戦えることを突き止めています (チク・タク・ツーの最適戦略について記した直筆メモ)。実用的な解析機関の開発には莫大な資金が必要でしたが、ゲームプレイに特化したミニチュア版解析機関であれば、実現の見込みは十分にありました。

チク・タク・ツー・マシンの設計を大雑把にスケッチし終えたとき、ふとバベッジの頭に、これは解析機関の開発資金稼ぎに使えるのではないかというアイデアが閃きます。チク・タク・ツー・マシンをオートマトンに仕立てて興行に出せば、かつて自分を魅惑した銀製バレエダンサーのように、そしてケンペレンの「ターク」のように、世間の注目を集めるに違いないと考えたのです。

彼が思い描いたのは、子供の姿をした2体の人形が、人形どうしで対戦するというオートマトンでした。子供たちの傍には小羊と雄鶏の人形が置かれ、勝負がつくと雄鶏が勝ち鬨をあげて勝者が拍手し、次に小羊が哀れっぽく泣いて敗者が腕を組んで泣く、という子供向けの演出を盛り込んだエンターテイメントになるはずだったそうです。対人型のゲームマシンにしなかったのは、設計を簡略化するためだったのか、それとも人形が勝敗を認識しているという要素を強調するためだったのか。真相はよく分かりません。人間がプレイに参加できたのかどうかも気になるところですが、これについては言及がありません。しかしその余地はあったと考えるのが妥当でしょう。機械どうしの対戦しかできないのであれば、「あらかじめ決められた手順に沿って打っているだけではないのか」という疑いを免れることができないからです。

このようなオートマトンの製作は、技術的にはそれほど困難なことではなかったようです。解析機関に比べて格段にシンプルに設計できたことを、バベッジは強調しています。もっとも障害がまったくなかったというわけではなく、条件分岐と乱数発生の実装には手間取ったという記述も見られます。条件分岐の処理方法については、すでに解析機関の設計段階で十分考察されていたはずなので、ここで問題になったのはたぶん迅速・効率的な実装の手段でしょう。

厄介なのはむしろ乱数発生のほうでした。まったく同等に有効な手がふたつ以上ある場合、どうやって機械に選択させればいいのか。乱数テーブルを用いれば解決する問題ではありますが、バベッジはこれを潔しとしませんでした。代わって思いついたのは、これまで勝利した回数を記憶させておき、それを有効手の数で除算し、余りの数で決定させるという仕組みでした。余り0なら手順Aへ、余り1なら手順Bへ…といった具合です。いまや機械は偶然すらも作り出せる―――ラプラスの言葉「偶然とは人間の無知の現れである」を引用して、バベッジは自らの成果を誇らしく語っています。彼はラプラスと親交を持ち、自然現象はすべて数学で読み解くことができるという彼の決定論的世界を信奉していました。これはチューリングノイマンといった100年後のパイオニアたちとのもっとも大きな隔たりといえるかもしれません。

チク・タク・ツー・マシンの実用化まではあと一歩でした。しかしバベッジマーケティングリサーチの結果、このオートマトンの興行を断念しなければならないことを悟ります。計画の初期段階では、商業的成功は間違いないものに思われました。調査の結果、子供だけでなく大人たちも大きな興味を示すことが分かったのです。これなら親子連れの見物客から大いに収益を上げられそうでした。しかしいざ興行予定を立てようという段になって、バベッジオートマトンに対する世間の興味が急速に醒めてしまったことに気付かされます。ラテン詩を作成する機械や、音声合成で話す機械など、精巧なオートマトンたちの興行が最近次々と商業的不振に陥っていることが判明したのです。一体何が起きたのでしょうか?

原因はアメリカからやってきた「親指トム将軍」でした。近代サーカスの祖として知られる稀代の興行師P.T.バーナムの演出によって、この「親指トム将軍」のショウが他を寄せつけない爆発的な人気を誇るものになっていたのです。しかもバーナムの興行を境に、即物的で肉体的な見世物が、オートマトンに取って代わるようになってしまいました。「親指トム将軍」のヨーロッパ巡業開始は1844年。バベッジがゲーム研究の論文を発表したのとまったく同じ年だったというのは、なんとも皮肉な巡り合わせであるという他ありません。バベッジの研究着手が1年でも早ければ、コンピュータゲームの歴史は、まったく違ったものになっていたかもしれません。そしてオートマトンの事業化が成功していれば、その収益で解析機関が完成していたのかもしれません。オートマトン計画の挫折とともに、彼は解析機関の製作そのものも凍結してしまいます。

機械仕掛けが見世物として復権を果たすためには、コイン式マシンの誕生と、それを専門に扱う施設、すなわちペニー・アーケードの登場を待たなければなりませんでした。しかしそれはバベッジの死後何十年も経ってからの話です。