オートマトン時代の終焉

バベッジの当初の目標は、むろん機械にチェスをプレイさせることでした。しかしミニマックス法でチェスをプレイする場合には、膨大なメモリが必要となります。フルスペックでも1000個の数値 (10進数50桁) しか記憶できなかったとされる解析機関は、明らかに能力不足でした。こうなるとチェスは諦めざるをえません。

しかしバベッジはチク・タク・ツーなら、わずかなメモリしかなくても人間と互角に戦えることを突き止めています (チク・タク・ツーの最適戦略について記した直筆メモ)。実用的な解析機関の開発には莫大な資金が必要でしたが、ゲームプレイに特化したミニチュア版解析機関であれば、実現の見込みは十分にありました。

チク・タク・ツー・マシンの設計を大雑把にスケッチし終えたとき、ふとバベッジの頭に、これは解析機関の開発資金稼ぎに使えるのではないかというアイデアが閃きます。チク・タク・ツー・マシンをオートマトンに仕立てて興行に出せば、かつて自分を魅惑した銀製バレエダンサーのように、そしてケンペレンの「ターク」のように、世間の注目を集めるに違いないと考えたのです。

彼が思い描いたのは、子供の姿をした2体の人形が、人形どうしで対戦するというオートマトンでした。子供たちの傍には小羊と雄鶏の人形が置かれ、勝負がつくと雄鶏が勝ち鬨をあげて勝者が拍手し、次に小羊が哀れっぽく泣いて敗者が腕を組んで泣く、という子供向けの演出を盛り込んだエンターテイメントになるはずだったそうです。対人型のゲームマシンにしなかったのは、設計を簡略化するためだったのか、それとも人形が勝敗を認識しているという要素を強調するためだったのか。真相はよく分かりません。人間がプレイに参加できたのかどうかも気になるところですが、これについては言及がありません。しかしその余地はあったと考えるのが妥当でしょう。機械どうしの対戦しかできないのであれば、「あらかじめ決められた手順に沿って打っているだけではないのか」という疑いを免れることができないからです。

このようなオートマトンの製作は、技術的にはそれほど困難なことではなかったようです。解析機関に比べて格段にシンプルに設計できたことを、バベッジは強調しています。もっとも障害がまったくなかったというわけではなく、条件分岐と乱数発生の実装には手間取ったという記述も見られます。条件分岐の処理方法については、すでに解析機関の設計段階で十分考察されていたはずなので、ここで問題になったのはたぶん迅速・効率的な実装の手段でしょう。

厄介なのはむしろ乱数発生のほうでした。まったく同等に有効な手がふたつ以上ある場合、どうやって機械に選択させればいいのか。乱数テーブルを用いれば解決する問題ではありますが、バベッジはこれを潔しとしませんでした。代わって思いついたのは、これまで勝利した回数を記憶させておき、それを有効手の数で除算し、余りの数で決定させるという仕組みでした。余り0なら手順Aへ、余り1なら手順Bへ…といった具合です。いまや機械は偶然すらも作り出せる―――ラプラスの言葉「偶然とは人間の無知の現れである」を引用して、バベッジは自らの成果を誇らしく語っています。彼はラプラスと親交を持ち、自然現象はすべて数学で読み解くことができるという彼の決定論的世界を信奉していました。これはチューリングノイマンといった100年後のパイオニアたちとのもっとも大きな隔たりといえるかもしれません。

チク・タク・ツー・マシンの実用化まではあと一歩でした。しかしバベッジマーケティングリサーチの結果、このオートマトンの興行を断念しなければならないことを悟ります。計画の初期段階では、商業的成功は間違いないものに思われました。調査の結果、子供だけでなく大人たちも大きな興味を示すことが分かったのです。これなら親子連れの見物客から大いに収益を上げられそうでした。しかしいざ興行予定を立てようという段になって、バベッジオートマトンに対する世間の興味が急速に醒めてしまったことに気付かされます。ラテン詩を作成する機械や、音声合成で話す機械など、精巧なオートマトンたちの興行が最近次々と商業的不振に陥っていることが判明したのです。一体何が起きたのでしょうか?

原因はアメリカからやってきた「親指トム将軍」でした。近代サーカスの祖として知られる稀代の興行師P.T.バーナムの演出によって、この「親指トム将軍」のショウが他を寄せつけない爆発的な人気を誇るものになっていたのです。しかもバーナムの興行を境に、即物的で肉体的な見世物が、オートマトンに取って代わるようになってしまいました。「親指トム将軍」のヨーロッパ巡業開始は1844年。バベッジがゲーム研究の論文を発表したのとまったく同じ年だったというのは、なんとも皮肉な巡り合わせであるという他ありません。バベッジの研究着手が1年でも早ければ、コンピュータゲームの歴史は、まったく違ったものになっていたかもしれません。そしてオートマトンの事業化が成功していれば、その収益で解析機関が完成していたのかもしれません。オートマトン計画の挫折とともに、彼は解析機関の製作そのものも凍結してしまいます。

機械仕掛けが見世物として復権を果たすためには、コイン式マシンの誕生と、それを専門に扱う施設、すなわちペニー・アーケードの登場を待たなければなりませんでした。しかしそれはバベッジの死後何十年も経ってからの話です。