さよなら Sprinter

raww.orgは8月11日付で、ZXスペクトラム上位互換機・スプリンターの製造が終了したようだと伝えています。何日か前から公式サイトが消滅しているので、おそらく確かな情報でしょう。スプリンターは、MSXとTurboRの関係を上回る、大幅な機能強化を施された互換機で、その構成は以下のようなものでした。


  ZX Spectrum 128K Sprinter 2000
CPU Z80A (3.5MHz) Z84C15 (21MHz)
RAM 128KB 4MB (最大64MB)
ROM 16KB 128KB
VRAM - 512KB
サウンド AY-3-8910 (PSG, 3ch.) AY-3-8910 または DAC (16-bit/4ch.)
グラフィックス 256x192 (8色) 320x256 (256色) または 640x256 (16色)
拡張端子 独自仕様x1 ISAx2, IDE, PS/2
価格 180ポンド 170ドル (基板のみ: 115ドル)
発売 1985 2000
実際のところ、これは「スペクトラム互換モードもある新しいシステム」という位置付けの商品で、開発元であるロシアのピーターズ・プラス社は、単なるZXスペクトラム互換機として認識されることを極度に嫌っていました。しかし彼らの意図がどうであったにせよ、その評判を高めたのは、今世紀に入ってもなお商業ベースに乗っている唯一の8-bit互換パソコンであるという事実に他なりません。少なくとも、それ以上の存在として使いこなしていた人間は、ロシアの外には見当たりませんでした。それでもなおピーターズ・プラスが新システムであるという点にこだわったのは、スプリンターが8-bitリバイバルの潮流から生まれたものではなかったためでしょう。

スプリンターが世に現れた1996年当時、それはまぎれもなく8-bitパソコンの究極の姿でした。それがいつからかリバイバルの枠組のなかでしか評価されなくなったのは悲しい顛末ですが、ロシアの外の人間にとってはさすがに無理からぬ話でしょう。スプリンターが背負っていた本来の意義を理解するためには、ロシアのパソコン史そのものを紐解く必要があります。

ソヴィエト・ロシアのパソコン黎明期

旧ソ連に本格的なホームコンピュータ時代の波が訪れたのは、やはり冷戦終結期のことでした。しかしヴィシェグラード各国 (ポーランドチェコ、スロヴァキア、ハンガリー) に比べると、市場の活性化には少し遅れをとっています。これは市場開放そのものが遅れたためでもあるのですが、それ以上に、輸入パソコンの価格が不当に吊り上げられてしまう市場の仕組みが足を引っ張ったためでした。

ソ連は1988年からコーペラチフ (協同組合) という形での営利団体設立を認めるようになります。これにより西側製パソコンを合法的に輸入販売することも可能になりました。しかしこのシステムを悪用して、西側ではとっくに時代遅れになったようなパソコンを法外な価格で国内に転売する、犯罪組織すれすれの集団が跋扈するようになったのです (これがいかにいい稼ぎになったかは、岩上安身氏によるアレクサンドル・チトフ氏へのインタビューによく表れています)。このために、たとえばZXスペクトラムを手に入れようと思えば、13年分の年収に相当する4万ルーブルもの金額を支払わなければならないような状況が生まれました。IBM-PC (非XT/AT) ともなれば6万ルーブル、実に20年分です。同じ時期のポーランドでは、タイメックス・シンクレアを給料1ヶ月分で、チェコスロヴァキアではMZ-800を高給取得者の給料4ヶ月分で購入できた―――といえば、いかに格差が大きかったかお分かりでしょう (そんな状況でもモスクワにはアタリのユーザーズクラブが出来ていたそうですが)。

そういうわけでソ連の一般大衆にとっては長らく、パソコンの個人購入など夢のまた夢という状況が続いていました。それでもパソコンが欲しいとなったら、どうすればよいのか。道はひとつ。自作することです。ソ連における自家製パソコンの伝統は意外に古く、1983年に『ラジオ』誌が組み立て方法を紹介した、マイクロ80 (Микро-80) という機種にまで遡ることができます。8080 CPU (ソ連製クローン)、6.5KBのRAM、モノクロのテキスト画面サポートというごくシンプルな構成のマシンですが、まもなく洗練されたBASIC言語が発表されたため、意外にいろいろなことができたといいます。これはまさに、アメリカのアルテア8800や、日本のTK-80のような役割を果たしたマシンだったといえるでしょう。ただし、半導体部品点数200個以上という非常に複雑な構成だったため、誰でも簡単に組むことができるというものではありませんでした。

こうしてソ連のパソコンシーンは、アマチュア主導で幕を開けました。以後は長きにわたって自作パソコンの時代が続くことになります。1985年には、ウクライナのエンジニアであるA.ヴォルコフ氏が、4色カラーとキャラクタフラフィックスを実現したスペシャリスト (Специалист) なる機種の製作方法を紹介しました。しかしより大きな注目を集めたのは、それよりはずっと非力なマイクロ80の上位互換機・ラジオ86RK (Радио-86РК) でした。これは1986年にやはり『ラジオ』誌で公開されたもので、性能面ではマイクロ80と大差ありません。しかし部品点数が29個にまで削減されており、格段に組み易いものになっていたのです。この効果で、ラジオ86RKはソ連における第一次パソコンブームの象徴ともいうべき存在になっていきます。

やがてコーペラチフの設立が認可されるようになると、ラジオ86RKはさまざまなメーカーからキット販売されるようになりました。この製造は1991年頃まで続き、後年には完成品も販売されていたといいます。もともとがオープンアーキテクチャだったおかげで、ラジオ86RKは非常に円滑にスタンダードとしての地位を確立していくことができたわけです。いちはやくオープンアーキテクチャ主体の市場スタンダードを形成したという点で、ソ連は日欧米より先進的だったといえなくもありません (もっともこの逆に、47もの省庁で個別に行ったという官製パソコンの開発は、お互いに何の接点も持たなかったため大失敗に終わったといいます。ソ連の経済改革は、こういう意味でも起こるべくしてきたものだったといえそうです)。

ラジオ86RKと同じ頃には、他にもさまざまな機種が登場しています。もっとも有名なのは、初の正式なソ連製パソコンとして知られるAGATシリーズでしょう。1984年のCeBITでこれが披露されたときには、いよいよソ連もパソコンに進出かと注目されたわけですが、ふたを開けてみればキリル文字をサポートしたアップルIIクローン機以外の何者でもありませんでした。AGATシリーズは研究・学習向けに開発されたもので、一般にはあまり出まわっていません。

正規に市販されたものとしては、BK-0010 (1985) が最初です。PDP-11相当のCPUをベースにした4色カラーグラフィックスのマシンで、完成型で流通しました。当初の価格は72,400ルーブルと、普通に生活している人にはとても手の出せない代物でしたが、間もなく650ルーブルにまで下落し、学校や家庭を中心にある程度の人気を博すようになりました。

ほかにも詳細不明のIBM-PC/XT互換機・MC1502など、何機種かあったようです。またソ連文部省は1988年にヤマハから4000台のMSX/MSX2仕入れ、国営学校に配備しました。当時はヤマハの名前がパソコンの代名詞になったというくらいですから、その存在感は相当なものだったのでしょう。このようにして、ペレストロイカの初期から、ソ連ではさまざまな形でパソコンの浸透が始まっていたわけです。こうした「正規のパソコン」は、1988年までに少なくとも5万台以上存在していたと見られています (CIA調べ)。

リバース・エンジニアリング

ラジオ86RKで確立された「はじめにオープンアーキテクチャありき」という構図は、次いで普及することになるZXスペクトラムにも当て嵌まります。いえもちろん、ZXスペクトラムはもともとオープンアーキテクチャのマシンではありません。大部分は汎用部品で構成されているものの、画像処理や各種入出力を司るカスタムゲートアレイだけは、門外不出のトップシークレットだったのです。スペクトラムが他社の同クラス機に比べて、圧倒的な低価格化を達成することができたのは、ひとえにこの多機能チップのお陰でした。これが一般に出回らない限り、スペクトラムはスタンダードにはなりえなかったわけです。しかし1985年、ソ連設計局がウクライナリヴィウ工科国立大学に対し、秘密裏にスペクトラムリバースエンジニアリングを要請しました。彼らは短期間でカスタムゲートアレイの構造を解析し、何十個もの論理ICを組み合わせてこれを完全再現します。その成果は初の国産互換機「リヴィウ」に結実しました。ただしこれは量産されず、一般には出回っていません。

同じような試みは当時、ポーランドチェコスロバキアルーマニアなどでも行われていました。そしてそれぞれの成果と、それぞれの互換機を生み出しています。

シンクレアリストたちの産業革命

こうしてZXスペクトラムは、シンクレアの預かり知らないところでオープンアーキテクチャへと変貌を遂げました。やがて「リヴィウ」の設計図はどこからともなく外部へ流出し、1988年までに相当数のZXスペクトラム互換機がソ連邦内で自作されるようになっていました。このころソ連ではアンダーグラウンドなコンピュータハッカーのことを「シンクレアリスト」と呼び慣わしていたほどです。それまでの自作パソコンとは比較にならない高性能ぶりで、ZXスペクトラムはポスト・ラジオ86RKの地位を築きつつあったわけです。

シンクレアリストたちの拠点となったのは、ソ連第二の大都市・レニングラード (現サンクトペテルブルク) です。ここは西側文化の窓口であると同時に、軍需産業の密集するテクノロジの先端地帯でもありました。ハッカーを育むのには最適な土壌だったわけです。ソ連におけるZXスペクトラムの探求は、当初きわめてアンダーグラウンドに行われていました。しかしコーペラチフが認可されるようになったことで、異変が起こります。ラジオ86PKと同様に、シンクレアリストたちのクローン機もまた、市販品として流通するようになったのです。

そうして1988年、大量生産タイプの第一号として、モスクワというクローン機が登場します。基本的にキットとして流通していたもので、よほど生産数が少なかったのか、今日このマシンに関する情報はほとんど残っていません。これに追随して次々と新しいクローン機が発売されるようになり、二年後にはレニングラードだけで二十機種以上が存在するまでになっていました。ZXスペクトラムは、もはやひとつの標準規格といえるものになっていたのです。

初期のクローンのなかでもっとも人気を博したのは、ペンタゴンと呼ばれるモデルでした。これはモスクワの後期型に手を加えたもので、セミキットで提供されていました。拡張性に秀でた設計を特色としており、本家スペクトラムと違って最初からプリンタポートやディスクドライブなどをサポートしています。

このペンタゴンに迫る勢いだったのが、もうひとつの雄・レニングラードシリーズです。こちらは当時もっとも安く入手可能だったクローン機で、可能なかぎりシンプルかつコンパクトに設計されていました。ただしあまり単純化しすぎたため、初期型は互換性が不十分になっていたといいます。しかし1991年発売の後期型ではこの点が大きく改善され、各種拡張ポートや本格的キーボードを備えるなどして安っぽい印象からも脱皮。人気は急上昇しました。一部には軍需工場を借りて生産されたものがあるなど、信頼性にも配慮していたようです。

本場イギリスでもよく知られたソ連製クローン機としては、ホビットがあります。初等教育とビジネス用途での活用を念頭に置いた堅牢・多機能なマシンで、標準でネットワーク機能やCP/M, FORTHなどを装備しています。およそ1万5000台が製造され、イギリスでも若干数流通しました。またロシア海軍の水中探査に用いられたことでも知られています。

個性的なクローン機はその他にも多数存在していますが、きりがないのでこのへんにしておきましょう。

次世代のスペクトラムを求めて

ペンタゴンは何度かバージョンアップを繰り返し、いつのまにやらターボモードや拡張音源などを備えて、本家を凌ぐ盛り沢山なマシンへと進化していました。RAMの最大容量も512KB (本家の4倍) までサポート可能になっていきます。

ロシアではやがて、本家以上にペンタゴンの仕様が影響力を持つようになりました。たとえば、イギリスのZXスペクトラムシーンではディスクドライブの標準化が遅れたため、テープメディアが主流であり続けたわけですが、ロシアではペンタゴンの後期モデルがテープサポートを打ち切ったため、テープソフトがすぐに姿を消し、ディスクメディアが一般化していくことになります。しかもそのフォーマットは本家とはまったく異なっていました (ペンタゴンが採用したのはTR-DOSといって、かつてイギリスの無名サードパーティからリリースされたまま忘れ去られていたものです)。

しかしそのペンタゴン全盛時代も、ソ連の解体により新しい局面を迎えることになります。1992年に本格的な市場経済への移行が始まると、悪徳コーペラチフに暴利を貪られることなく、正当な市場価格で輸入コンピュータを購入する道が拓かれました。この頃からアミーガやIBM-PC互換機の流入が急速に進み、1995年にはサンクトペテルブルクで、両機種を対象とするロシア初のデモパーティ・ENRiGHTが開催されるまでになります。

また1993年には、台湾製ファミコン互換機が上陸し、子供たちの間で爆発的な人気を博するようになります。小天才を筆頭にさまざまなタイプが流通していたようですが、名称はすべて「Dendy」で統一されていました。純正品のまったく存在しなかったロシアでは、NESファミコンという呼称はほとんど通用しません。それどころか、もともとこれが任天堂の製品だったということすら知らない人も少なくないくらいです。

このように新世代機が台頭しはじめても、サポートやソフト資産の面で大きなアドバンテージのあるZXスペクトラムの人気は、そう簡単には衰えませんでした。しかしクローン機メーカー各社は新しい時代に対応するべく、次世代のスペクトラムの姿を模索しはじめます。たとえば、レニングラードシリーズの開発者であるセルゲイ・ゾノフ氏は1992年、各種PC用パーツを流用可能な、拡張性に優れる高性能互換機・スコーピオン ZS-256を完成させています。これは本家スペクトラムとの互換性に重きを置いた結果、ペンタゴンとの互換性を若干欠くことになったため、ペンタゴンほどの人気商品にはなりませんでした。しかし実は、現在でもまだ開発と販売が続いています。

このスコーピオンの理想をさらに推し進めたのが、1996年発売のスプリンターでした (はい、ようやく話が最初に戻ります)。スプリンターが8-bitリバイバルの潮流から生まれたものではないということを、ここではじめて理解できると思います。

ピーターズ・プラスは、1993年に最初の製品をリリースした、かなり後発のZXクローン機メーカーでした。彼らが当初リリースしていたMC64シリーズは、開発者向け機能の拡張・強化に重点を置いた、玄人志向のマシンでした。これにスコーピオンの設計思想が融合して誕生したのが、スプリンターだったといえます。事実スプリンターはスコーピオン互換を謳っていました (ついでにペンタゴン完全互換でもあります)。

アミーガやPCが猛威を奮ういま、旧来のスペクトラム像から脱皮しなければ、スペクトラムユーザーに本当の意味での未来はない―――そう考えて、スプリンターがスペクトラム以上のことをできる新システムであることを、彼らはことさら強調したのでしょう。そういう点では、クラシックアミーガに対する次世代アミーガに近い存在だったといえるかもしれません。しかしユーザーたちは、スプリンターをスプリンターとして使いこなすところまでは到達しませんでした。ソフト資産の少なさが、その人気の薄さを物語っています。

たしかにスプリンターは、アミーガ500に匹敵するほどの性能を実現していました。386時代の標準的なPCと比べても、表現力の面では遜色なかったかもしれません。実際のところ、そのあたりのクラスを意識してスペックを設定したのではないかと見受けられます。しかし新システムとして考えるのであれば、スプリンターは完全にゼロからのスタートでした。ソフト資産はZXスペクトラムのものしかないわけですから、Windowsはもちろんアミーガにも太刀打ちできるわけがありません。それでも八年持ち堪えたわけですから、むしろよくやったといっていいのでしょう。

スプリンターの軌跡は、8-bitリバイバルを単なるリバイバルで終わらせないことが、どれほど難しいかを示しているようにも思います。C-OneやCPCNGを始めとする同様の試みも、その失敗に学ぶところは大きいはずだと思いますが、どうか似たような轍を踏まないよう心がけてほしいところです。

(ところで、次世代スペクトラムを目指したものは当時ほかにもいろいろあって、面白いところでは、『ZXレヴュー』という雑誌が1995年ごろ、ファミコン互換機に使用されているワンチップファミコンとZXスペクトラムを組み合わせた新型機を企画していました。実現したのかどうかは定かではありませんが)

参考: