Astrocade On A Chip

日本では「ワンチップMSX基板がついに完成か」なんていう話題が出ていますが、いっぽう海の向こうではバリー・プロフェッショナル・アーケード (バリー・コンピュータ・システム/アストロケード) のワンチップ化計画が大詰めを迎えつつあります。コモドールVIC-20やさまざまなアーケード基板などをワンチップで再現してきたFPGA Arcadeが開発しているものですが、コーディングそのものは完了しており、現在デバッグ段階とのことなので、まもなくお目見えするのではないかと思います。

バリー・プロフェッショナル・アーケードなんて言われても、名前すらご存知ない方が大半ではないかと思います。カジノ/ピンボール最大手のバリーが1977年より売り出したこのマシンは、位置付けとしてはアタリVCSやマグナヴォックス・オデッセイ2の対抗馬にあたる家庭用ヴィデオゲーム機ということになるでしょう。しかし同時に、入門者向けホームコンピュータとしての性質も兼ね備えていました。オデッセイ2もそういう方向性のマシンですが、プロフェッショナル・アーケードは輪をかけてコンピュータ寄りです。初期はコンピュータ関連ショップが主要な販路でしたし、途中からはBASIC言語のカートリッジが標準で付属するようになったくらいです。ゲームとコンピューティングのバランス配分を、当時としては実にうまく考えていたシステムで、低価格ゲームパソコンの元祖といえる存在かもしれません。しかし同クラス機ではもっとも高価だったうえ (高価なことで有名だったアタリVCSより更に50ドル〜100ドル高い)、バリー自身がマーケティングにひどく消極的だったため、歴史の狭間に消えて行くことになります。バリーは1980年にアストロケードの展開から手を引きました。しかしそのコンピュータ入門機としての完成度の高さを惜しんだユーザたちがアストロヴィジョン (のちのアストロケード) 社を設立して権利を買い取り、1985年頃まで販売を引き継いだというくらいで、ユーザには本当によく愛されたシステムだったのです。

ふたりのNutting

プロフェッショナル・アーケードのハードウェアは、1970年代のバリー/ミッドウェイを影で支えたデイヴ・ナッチング・アソシエイツ (DNA) 社の、高度なマイクロプロセサ技術の結晶とも呼べるものです。社名でお気づきかと思いますが、このDNAというのは、最初のアーケードヴィデオゲームのひとつとして名高い「コンピュータ・スペース」を世に送り出した、あのナッチング・アソシエイツと縁のある会社です。ナッチング・アソシエイツはもともと、ビル・ナッチングとデイヴ・ナッチングの兄弟が設立したものだったのですが、やがて両者の間に不和が生じ、会社は分裂。ビル氏の本家ナッチング・アソシエイツはシリコンヴァレーへと向かい、デイヴ氏のもうひとつのナッチング・アソシエイツは中西部へと向かいました。

ビル氏はその後、ノラン・ブッシュネル氏と邂逅してヴィデオゲームに開眼し、「コンピュータ・スペース」を発売。「ポン」ブームの渦中にも、亜流ゲームをいくつか繰り出しました。世界最初のカラーヴィデオゲーム「ウインブルドン」もそのひとつです。しかしその後の行方はよく分かっておらず、一説によるとビル氏は間もなく会社を畳んで、キリスト教の布教活動に従事するようになったといいます。

いっぽうデイヴ氏側のナッティング・アソシエイツ=DNAは、当初ヴィデオゲーム産業には関わろうとはしませんでした。中西部といえばピンボール産業の一大拠点です。DNAは「ポン」ブームを尻目に、この地でピンボールのソリッドステート化に取り組んでいました。1974年9月、デイヴ氏らは世界で初めてマイクロプロセサ方式ピンボールの実用化に成功し、その成果をバリーに披露しています。それまでの常識では考えられないような省スペース化を達成したその筐体は、バリーの度肝を抜いたといいます。

しかしDNAの技術力に着目したのはバリー以上に、そのアーケード部門子会社であるミッドウェイでした。彼らはマイクロプロセサを使うことで、同じようにしてヴィデオゲームの回路も単純化できるはずだと気付かされたのです。ミッドウェイといえば、当時すでにアミューズメント最大手の一角ではありましたが、まだどちらかといえばエレメカに力点を置いており、オリジナルなヴィデオゲームの開発にはたいへん消極的でした。「ポン」以降彼らが製造していたのは、おもにタイトーやラムテックのライセンス品です。そういうミッドウェイにしてみれば、面白いゲームを考え出すことより、製造工程の効率化のほうがよほど重要だったわけです。そこでミッドウェイはまず、タイトー「ウエスタンガン」 (1975) をDNAの技術で再設計させることにしました。こうしてTTL基板の「ウエスタンガン」は、アメリカではマイクロプロセサを採用した世界初のアーケードヴィデオゲーム「ガンファイト」へと生まれ変わることになったのです。

Midway 8080 System

DNAは翌年バリーに吸収され、完全にそのシンクタンクとして機能するようになりました。これによりミッドウェイはアタリにも劣らぬ最先端ヴィデオゲーム技術の担い手として、大きく飛躍することになります。「ガンファイト」を手がけたデイヴ氏とトム・マクヒュー氏は、次に完全オリジナル新作「シーウルフ」 (1976) の開発に取り掛かっています。潜水艦ゲームという新しいジャンルを切り拓いたこの作品は、「ガンファイト」をも上回る人気作となり、およそ1万台を出荷。ミッドウェイにおけるDNAチームの評価は確固たるものとなりました。

ところで「シーウルフ」は「ガンファイト」の基板をベースにしています。「ガンファイト」は、同じ基板を複数のゲームで使い回せるようにする、いわゆるシステム基板の先駆けでもあったのです。この通称ミッドウェイ8080システムボードは、1980年頃まで使用されていました。

元祖システム基板的なものは「スペースインベーダー」ではなかったかと思われるかもしれませんが、実はその「スペースインベーダー」にしてからが、ミッドウェイ8080システムで生み出されたものだったそうです。デイヴ・ナッチング氏の証言によると、タイトーは「スペース・インベーダー」を完成させるにあたって、このシステム基板を無断でコピーしていたということです。現にミッドウェイは、同システムを使ってオリジナルと寸分違わぬ「スペースインベーダー」を動作させていますし、そもそも三年前の基板で動いてしまうこと自体が (ドーターボードでいくらか性能アップしていたとはいえ) 不自然なことですから、デイヴ氏の言葉は事実と考えて差し支えないでしょう。ミッドウェイはおそらく、このことを黙認する代わりに、北米における「スペースインベーダー」の製造販売権を独占する契約を結ばせたのではないかと思います (スターンも「スペースインベーダー」をライセンス製造していたことが知られていますが、これもミッドウェイの管理下にありました)。タイトーがミッドウェイに独自の続編制作を許していたことなどから見ても、ミッドウェイがいかに強い立場にあったか分かるというものです。こういった抜け目のなさで、ミッドウェイはアタリを凌ぐ北米最大のアーケードブランドとしてのし上がっていくわけです。

[10/23追記]: タイトー版とミッドウェイ版のゲームプログラムは、バイナリレベルでも酷似していることが分かっています。この事実もまた、ハードウェアの差異がいかに少ないかを示唆しているといえるでしょう。

Professional Arcade

バリーは1977年までに家庭用コンピュータ/ヴィデオケーム市場へと進出することを決意し、DNAチームはこの開発を担当することになりました。これがプロフェッショナル・アーケードとなるわけです。その設計思想は、最大のライバル機といえるアタリVCSとは対称的なものでした。アタリが拡張性を極力排除し、ヴィデオゲーム機としての性能だけを追求したのに対して、DNAチームは拡張次第でなんでもできるような、非常に柔軟なシステムを目論んでいました。実は1977年秋の試験的な通信販売の段階では、プロフェッショナル・アーケードは「ホーム・ライブラリ・コンピュータ」という名前を冠され、教育デバイス、ゲームマシン、ビジネスツール、ホームコンピュータとしての性質を等しく強調していたのです。「アーケード」の名でヴィデオゲーム機を強く匂わせるようになるのは、翌年以降のことです。

プロフェッショナル・アーケードの中枢部ともいうべきカスタムヴィデオチップもまた、VCSのそれとは性質を異にします。アタリVCSはハードウェアスプライト機能を持たせることにより、ゲーム用に映像の最適化を図ったわけですが、プロフェッショナル・アーケードはより多彩な画像処理を可能にする、いわゆるビットブリットに近い仕組みを持たせ、スプライト処理はソフトウェアに任せています。この方法だとハードウェアスプライトのようなキャラクタ同時表示数の制限がない代わりに、軽快な描画にはより多くの処理速度が要求されるわけですが、DNAチームは十分実用に耐える速度でソフトウェアスプライトを実現させていました。

このチップは本来、アーケード機でも家庭用機でも通用するように設計された多目的チップでした。プロフェッショナル・アーケードの名前は伊達ではなく、実際アーケードでも「GORF」「ウィザード・オブ・ウォー」「ロビー・ロト」ほかいくつかのゲームがこのチップを使用しています。「ロビー・ロト」のROMイメージは幸いにも合法的にフリー公開されていますので、MAMEを用いれば、このカスタムチップの性能を簡単に確認することができるでしょう。

ただしアーケードで使用される場合は、大量のグラフィックRAMを必要とする高解像度モード (320x204) で動作していました。このモードはRAMの少ないプロフェッショナル・アーケードでは封印されているのですが (いずれRAMが安価になるとは想像していなかったのでしょう)、ミッドウェイはその真価を引き出すべく、プロフェッショナル・アーケードをビジュアル志向の本格的なホームコンピュータとして使えるようにするためのアドオンユニット・ZGRASS-100の開発も進めていました。これはバリーが家庭用機ビジネスから撤退したため未完に終わりますが、1980年にはデータマックスという会社が、同じチップセットを用いたUV-1という業務用コンピュータを開発し、CGアーティスト向けに少数を製造していたようです。

ちなみにプロフェッショナル・アーケードはサウンドにも特徴的なカスタムチップを用いていました。これは最高3音の矩形波を同時出力するもので、その点では同時期に誕生したPSGチップに近いものですが、非常に強力なノイズジェネレータを搭載しており、往時のどの音源チップよりも豪快かつ表情豊かな効果音を発することができるようになっていました。

その後の Dave Nutting & Associates

バリーが家庭用ゲーム/コンピュータビジネスから撤退したあと、DNAの面々は再びアーケード方面に戻っています。前出のアーケード作品は、その頃に開発されたものでした。彼らの手がけた作品では、「GORF」や「ウィザード・オブ・ウォー」のほか、ミッドウェイ唯一のヴェクタースキャンゲームである「オメガレース」などが、ある程度の人気作となっています。しかし1983年から1984年にかけてのアーケード不況到来で、バリーはついにDNAを閉鎖してしまいます。以前「パックマン・ファミリの舞台裏」で述べましたが、このころミッドウェイはもうひとつの主戦力だったナムコとも疎遠になっています。かつての二大ヒットメーカーを手放したミッドウェイは、非常に地味なメーカへと変質し、1988年にはバリーもろとも、ウィリアムスに買収されることになります。「モータル・コンバット」で再びアーケードの覇者に返り咲くのは、これ以降の話です。

参考: