ゲームのなかのモダニズム

「ポストモダン化するコンピュータゲーム」の続きです。

そもそもゲームにモダニズムなんてあったのか? あったとすればどのような? そのあたりを明確にせずにいきなりポストモダン化なんていう言葉を持ち出したことに対して、抵抗感を感じた人もいらっしゃるようです。これまでゲームデザインの思想史を追うような研究がなかったわけですから、それは当然の反応です。そこで今回は改めて、ゲームにとってのモダニズムとは何かを掘り下げてみましょう。

モダニズムとは端的にいうと「古い伝統は新しい伝統によって塗り替えられるために存在している」とする進歩主義的な態度です。18世紀後半から20世紀前半にかけて、こうしたものの見方はほとんどあらゆる創作領域を呑み込んでいきました。むろんゲームも例外ではない、というのが私の考えです。ボードゲームにおける「モノポリー」、ウォーゲームにおける「タクティクス」、アミューズメント機におけるフリッパー・ピンボール、コンピュータゲームにおける「スペースウォー」。これらは各ジャンルに大きな転機をもたらした古典的な革新作ですが、いずれも過去のゲームを正統進化させたものではなく、むしろ旧来のスタイルから積極的に逸脱する形で生まれ、それにも関わらず後のゲームのあり方に支配的な影響を及ぼしてきたという点で共通しています。このような形での革新は以降ごくありふれたこととなり、新しいゲームはより面白いものであるという捉え方も、同時にありふれたものとなりました。ことにヴィデオゲームにおいては、ほとんど自明の真理のようになっているとさえいえます。

しかしゲームデザインとは昔からそういうものだったのでしょうか? もちろんそうではないのです。そもそもゲームが誰か個人の作品として認知されるという事態さえ、200年ほど前までほぼありえないことでした。そういうフォークロアの時代が終わりを告げ、ゲームが職業的にデザインされるようになるまでに、まず大きな意識の変化が起きています。そこからさらに、伝統的スタイルをひっくり返そうとする意識がデザイナに芽生えるまでにも、思考の転換かありました。デザイナたちが何者にも左右されることなくゲームを制作するようになったのは、ようやく19世紀も後半になってからなのです。日本ではおそらく高度経済成長期からのことでしょう。現代のゲームデザインは、近代に培われた新しいデザイン思想に、ほぼ無自覚に立脚しているわけです。

テトリスの10年


恐らくインベーダーを動かせる基板なら、テトリスを実装することも可能だったのではないかと思います。

しかしインベーダーが登場してからテトリスが登場するのに、実に10年かかりました(あくまで日本国内での登場年です)。純粋にゲームデザイナーの思い付きだけで実現できたはずなのにです。

なぜあの時代まで「テトリス」のような落ちものパズルを誰も考えつかなかったのかというのは、歴史屋にとってはちょっと興味深い問題です。「テトリス」が実際に移植されている最古のプラットフォームはアタリVCSで、70年代のハードウェアで動作することはすでに証明されているわけですが、では一体「テトリス」のどのあたりが、それまでのゲームデザイナの思考回路に入っていなかったのでしょうか?

プラットフォームに左右されないシンプルなゲームというだけなら、当時も雑誌投稿プログラムなどで盛んに制作されていました。パズルゲームの開発では最先端を行く日本のこと、そういうところに「テトリス」に繋がりそうなアイデアがなかったわけではありません。とりわけ注目すべきは、「ロットロット」「チェインショット」の2本でしょう。どちらも発表は1985年。奇しくもオリジナル版「テトリス」が生まれたのと同じ年です。両者と「テトリス」は以下のような共通点を有しています。

  • 数十キロバイト以内で完結する小さなプログラム。
  • 重力をモチーフにした抽象性の高いデザイン。
  • ヴィデオゲーム産業の外側から生まれ、その後メジャーデビューを果たしている。
    • 「ロットロット」(MSX): 『プログラムポシェット』誌→アーケードほか
    • 「チェインショット」(FM-8): 『ASCII』誌→スーパーファミコンほか
    • テトリス」(PDP-11クローン): 商業化失敗→無償配布→アーケードほか
もちろん「テトリス」と「ロットロット」には、リアルタイムにゲームが進行するという共通点もあります。そしてその進行が、ひたすら平衡状態をキープするだけで究極的な勝利に至ることはないという、いわばピンボール方式で行われることは見逃せません。

ステージ区分もなくエンドレスに進むピンボールのようなゲームデザインは、パソコンゲームの黎明期にはわりあいよく見られたものでした。しかしどうしても単調になりがちで、ゲーム内容に深みを持たせるのが難しかったため、ステージ制が定着した1982年頃以降は急速に廃れてしまったのです。ステージなくして面白いゲームは作れない、というのが以後ほとんど暗黙の了解になっていたのではないでしょうか。

テトリス」上陸までの10年間はそのような認識の打破に費やされた時間だったといっても過言ではありません。そして「テトリス」以前にピンボール方式への回帰を試みたほとんど唯一の事例が「ロットロット」だったわけです。この意味で「ロットロット」は「テトリス」になりそこなった惜しい失敗レシピだったといえると思います。あのとっつきにくさと難度の高さが解消されていたら、少なくとも世間の評価は多少上向いていたはずです。しかしそのためにはきっと、徹底した簡素化を貫く「チェインショット」の哲学が必要だったに違いありません。「チェインショット」の抜群のシンプルさと親しみやすさは、「テトリス」以前のどのゲームよりも「テトリス」的であるといえます。この設計思想が「ロットロット」の方法論と出会っていたら、「テトリス」革命は別の形で起こっていたかもしれない――馬鹿げた空想かもしれませんが、10年の空白にはそんな思いを巡らせるだけの因果が埋もれています。

水木潔語録

前回少し言及した任天堂の水木潔氏は、「ゲーム」よりも「玩具」の面白さを優先するというポストモダン的立場を鮮明に主張した、日本最初のゲームデザイナのひとりではないかと思います。氏は「ビートマニア」や「ニンテンドッグス」といった野心的な成功作で知られるわりには、ゲームデザインの姿勢について表立って語ることが少ないわけですが、じつは1997年頃のfjには、そのゲーム哲学の片鱗を窺わせる書きこみがいくつか埋もれています。

comparison (Re: 「 RPG 」 って何?) (1997.5) [分岐1]/[分岐2]

「ゲーム」と「玩具」の関わりを巡る西野元一氏との議論。ここで「コスティキャンのゲーム論」を初めて目にした水木氏は、次のように述べています。


なるほど、「game」と「toy」の違いなんて考えた事もありません
でしたが、そういう意味だと認識すると、ちょっと世界が明るく
見えてきますね:-)
僕が考えているのは、まさしく「toy」です。
そして僕は「toy」の方が、やはり面白いと思います。

何故なら、toyの方がより人生に近いと思うからです。
もしも人生はtoyよりもgameに近いと思う人がいるなら、それは
その人が不幸な生き方をしているという事でしょうから、それは
問題にしません。


やっぱりKid-Pixでしょうね、僕が目指しているのは。
知育玩具等にも興味がありますね。
対象を子供に特定しているわけでは無いんですけど。

ただ「大人の中の子供」を対象にしたいというのはあるかもしれません。

別スレッドには「『ゲームは砂場だ』というのがゲームを語る時の僕の口癖」という言葉も見られます。こういった姿勢は「ニンテンドッグス」にそのまま反映されているように思います。


ゲームを考える(二) (1997.2)


洗練されるから進歩が止まるのではなくて、技術革新が起こらなければ
進歩止まって、洗練が始まるのだと思います。
映画で良く言われますが、今の映画は白黒映画の最後の頃の洗練には
未だ到達していないとか、そういう事なんじゃないかと思います。
#SFXやCG技術が出なければ、とか色々想像出来ますよね。

だから、ゲームも技術革新が止まらない限り、永遠に洗練はされない
のでは、と僕は思います。

枯れた技術の水平思考」を氏なりの言葉で表したもの、ともいえそうです。氏は「ビートマニア」の当事者として、進歩の時代の終焉と洗練の時代の到来を、いち早く予見していたのかもしれません。

パソコンゲーム(Re: クローズアップ現代 (1997.4)

「いずれパソコンがゲーム機にとって代わるのではないか?」という議論。当時はコスト対性能比が歴然としていたため、あまり現実味のない話だったわけですが、


これは以前も話題に上りましたが、プログラムのアルゴリズムがより高度に
なればスタンドアロンのゲームにも可能性は多いにあると思います。ただ
現時点では、アルゴリズムが単純すぎて、深い楽しみが出来ないように僕
は感じています。

ゲームの進化は、僕は画像や音等の表現部分の進歩では無く、アルゴリズム
が複雑化してきた過程だと思っています。その部分の進化をどこに求めるか
ですね。今まで通りプログラムだけで対応するのか、それとも…、という
ところです。

ようやくこの発想に時代が追いついた、という気がしますが、さてネットワークの次に「アルゴリズムの複雑化」を促すものは、いったい何になるでしょうか。興味深いところです。


ゲーム性って何 ? (1997.2)


クリエイター指向というのを勘違いすると、単に自分の趣味をプレイヤー
に押し付けるだけのものになってしまいます。
そのクリエイターのセンスがプレイヤーの好みに合えば、まあいいんです
けど、真に最高のゲームはプレイヤーの趣味にゲームが合わせてくれるもの
だと思います
現在の技術では限定的にしか実現は出来ませんが、ゲームの理想の姿を
考えればそうなるはずです。

クリエイター志向を傘に着た単なる理不尽を押し付けられることが、当時はとくに多かったような気がします。ゲームにおける究極のクリエイター志向とは、ひょっとするとまるきり逆で、制作者の個性をまったく覗かせないことなのかもしれません。

ポストモダン化するコンピュータゲーム

コンピュータゲームは非コンピュータゲームと何か本質的に違うものかもしれない――ということは、たぶんゲームプレイヤの多くが漠然と感じてきたことだと思います。「ゲーム, プレイヤ, ワールド」は古典的ゲームモデルというものを提唱し、そこからの逸脱可能性こそコンピュータゲームならではのものである、ということを示してみせました。もちろんここまで明示的に述べていなくとも、既存のゲームモデルを突き破らんと考えてきた人々は、これまでにも大勢いました。その流れは少なくとも故リチャード・ゴールドスタイン氏の「リトルコンピュータピープル」までは遡ることができるでしょうが、日本のゲームデザイナがこうした変容に積極的に取り組みはじめたのは比較的最近で、めだった動きが顕れるのは1990年代半ばになってからでした。

これまでのところ、日本における脱ゲームモデル志向のゲームデザインはとりわけ「数値化可能な結末」を遠ざける方向、つまりコスティキャン流に言い換えるなら、「ゲーム」と「玩具」の境界領域を目指して突き進んできました。近年では「いっそゲームでなくしてしまったほうが面白いのではないか」というようなラディカルな意見さえ散見されるわけですが、思うにこの域に達した脱モデル化志向こそが、ゲームにおけるポストモダニズムなのではないでしょうか。

そうだとすれば、やがてヴィデオゲームは徹底的に解体し尽くされてしまうかもしれません。そういうものが一般化しうるかどうかは分かりませんが、いずれにせよその結果もたらされるのは、たぶん古株ゲーマーにはあまり居心地の良くない世界です。


ゲーマー脳は、きっちりとしたゴールのある古典的なゲームに楽しみを感じるよう長い年月をかけて熟成されたものだから、前の論文 (引用者註:「ゲーム, プレイヤ, ワールド」) でいうボーダーラインケースのものをそもそも楽しめないんじゃないかと思う。

旧来のゲーマーが「ゲームの定義を拡大する」というような言葉と真正面から向き合うためには、相応の覚悟が必要になるかもしれない、ということです。ちょうど先人たちがポストモダンな諸芸術を受け容れるときに持たねばならなかったような覚悟が。

そうはいっても、ヴィデオゲームの脱モデル化はもはや避けられない潮流であるように思われます――近年発展しているシリアスゲームという領域も、また別の軸からの脱モデル化ではないかと考えられるので、なおのこと。ポストモダンが徹底されたとき、現在の最先端ゲーマーは引き続き最先端でいられるでしょうか? ――最先端から転がり落ちて久しい私が言うのもなんですが。

ジュール氏への反論 (2) - フィクション性の位置付け

ジュール氏はフィクションの要素をゲームの成立要件に加えていないわけですが、この点に関しても不満を持つ人がいるかもしれません。氏は1999年に発表した修士論文 "A clash between game and narrative" のなかで、インタラクティヴ性と物語性は根本的に水と油の関係であるという主張を展開しています。といってもこれは、フィクションの要素を軽視していいという言説ではありません。沢月耀氏「ゲームはいかにして物語となるか」が指摘するのと同じ理由から、ゲームそれ自体は物語ではありえないということを述べているにすぎないのです。

人間は将棋やスポーツからさえ物語を読み取ることがあるわけですが、このようなルールセットと人間の関わりあいから生まれる物語と、シナリオや設定が演出する物語とは、往々にしてあちこちに矛盾を抱えながら共存しています。プレイヤがこうした状態を混乱なしに受け容れることができるのはなぜなのでしょうか? 映画や小説にはないゲーム特有の物語性というものを考えるためには、今後この点の解明が鍵になってくることでしょう。ジュール氏自身も今月刊行予定の新著『Half Real』において、より踏み込んだ考察を展開するのではないかと思います。

[追記]

一部でご指摘いただいているように、「対価交渉の可能な結末」という訳語は 'negotiable consequences' という語の意味を十分的確には伝えていません。'negotiable' なものには現実世界での精神的な影響までも含まれているので、「対価交渉」では即物的すぎるといえます。しかしどうにも適当な訳語が見つかりません。「対価」という言葉をできるだけ広い意味に解釈してください、と現時点ではお願いしておきます。

ジュール氏への反論 (1) - 可変かつ数値化可能な結果

ジュール氏の六要素に対する否定的な見解は、今のところそれほど多くは見られないとはいえ、皆無というわけでもありません。反論者がとくに槍玉に挙げるのは「可変かつ数値化可能な結果」です。これはもともと『ルールズ・オブ・プレイ』が提唱した要素ではあるのですが、結果を数値化できないという理由でMMORPGテーブルトークRPGを古典的ゲームの枠から外す考えかたは、コスティキャン氏からの強い批判に晒されています。ただし古典ゲームの歴史全体を見れば、これらがきわめて異質な存在であるということは、氏にも否定できないようです。

「可変かつ数値化可能な結果」に対しては、もうひとつ別の反論もあります。たとえばアクションゲームやシューティングゲームの大半は、仮にハイスコアやステージクリアといった要素がなかったとしても、プレイしているだけて十分に楽しいではないかというものです。つまりゴールは単にプレイヤのモチベーションを維持するための道具に過ぎないとする考えかたです。こういった反論をする人の多くは、法則に戯れる面白さと、ゲームプレイに興じる面白さを混同しています。積み木遊びやゴム鉄砲遊びなどを考えれば分かるように、何らかの法則に従ってものを作ったり壊したりする行為は、ゲームになっていなくとも娯楽たりえるものです。スコアやステージを取り払ってしまったら、後に残るものはゲームではなく、本質的にはこれらと変わらない「遊び」です。

ゲーム中だとそのことが妙に分かりにくくなるのは、法則世界を知り尽くしマスターすること自体もまたゲームになりうるからでしょう。やりこみの段階に入ったゲームプレイ (RPGのアイテム探しなど) は皆そうですし、スポーツなどでパーフェクトゲームを狙う状況も、概ね同じようなものだといえます。こういった法則探求ゲームの結果が、しばしば数値化不可能なものになることがあるのは否定できません。たとえば隠れアイテムをいくつ見つければどれだけ優れている、というような指標は、定量化されていないことも多いでしょう。しかし定量化されていないときには、あまり目に見えるかたちで法則探求ゲームが発生していないことも事実です。

ゲーム, プレイヤ, ワールド : ゲームたらしめるものの核心を探る

デンマークのルドロジストであるジェスパー・ジュール氏が執筆した、ゲームの定義の決定版ともいえる論文 "The Game, the Player, the World: Looking for a Heart of Gameness" (2003) を翻訳しました。ゲームとは何ぞやという問いかけに対して、今のところもっとも有効であろう答えが、ここに示されています。

ゲームの定義というと「クロフォードのゲームデザイン論」「コスティキャンのゲーム論」の提唱したものが有名ですが、ジュール氏のそれは、昨今注目を集めている『ルールズ・オブ・プレイ』に示された定義を足掛かりに、さらに徹底した探求を試みたものです。氏はこの論文で、理論と実際の狭間を縫いあわせるべく、かつてないほど広範かつ緻密な定義の検証を行っており、その成果は「現存するあらゆるゲームに照応できる定義」という、先人たちのなしえなかった業績として結実しています。

論文が発表されてからすでに2年になりますが、いまのところ日本では識者の間でもそれほど話題になっていないようです。そもそも日本ではゲームの定義論じたいがあまり盛んでなく、少なくとも個々の研究に横の繋がりはありませんから、このような論文には着地点がなかったのかもしれません。そうでなくとも、ゲームの定義というのはそれ自体で何か役に立つものではありませんから、あまり意味のないものと考えられることがしばしばです。しかし少なくとも分析家や批評家といった人種にとって、定義の不在は深刻な問題であり続けてきました。ゲームとは何かという共通認識が成立していなければ、本質を深く見据えた議論などできるわけもないからです。ここを有耶無耶にしたままでは、ゲーム批評も学術研究もあったものではないはずなのですが、日本のゲーム研究はそのようなルーツ探求にずっと目を背け、いわば基礎研究を欠いた状態で現在まで来てしまいました。

そんな経緯もあって、これまで日本で注目を集めたゲームの定義といえば、古くはカイヨワやホイジンガの時代から、海外の研究者によるものばかりでした。彼らはそれぞれに優れた考察を展開していたわけですが、定義内容が著者に身近なフィールドへと偏る傾向があり、ある程度以上は言葉遊びの域を出るものではなかったといえます。ゲームの定義を名乗っていながら、ゲームとそうでないものの境界線を明確に示すことができないという致命的な弱点を、どの考察も抱えていたのです。パズル、ギャンブル、シミュレータといったゲームの隣接ジャンルが、ゲームとして認知されたり認知されなかったりするのはなぜなのか。そういう問題に対しては、いずれもからきし無力でした。

ジュール氏の定義はまず第一に、そのような境界領域問題に徹底的に自覚的であるという点で画期的です。氏はゲームに隣接するジャンルたちが「どうして」「どの程度まで」ゲームではないのかを明らかにしていきます。ゲームたりえているかどうかは結局のところ程度の問題なのだという事実を直視し、ボーダーラインケースに立ち位置を与えることによって、氏は従来のどの定義よりも柔軟な、かつ恣意的にならない定義を紡ぎ出すことに成功しています。なにしろこの定義は「人生はゲームだ」式のレトリックにさえ相応に対峙できてしまうのですから。

第二に画期的な点は、ゲームの成立要素を行動科学的なものとシステム的なものにはっきり分離して捉えていることです。従来の定義はどちらかに偏っていた―――というより、そもそもゲームはさまざまな側面から定義しうるということに無自覚でした。そういう問題をはじめてはっきり視野に入れたのが『ルールズ・オブ・プレイ』だったわけですが、この本の定義もまた、行動科学的な要素を意識的に切り捨てていました。それをもう一度拾い上げ、うまく再構成してみせたものが、ジュール氏の定義であるといえます。

氏はゲームの構成要素を「決定されたルール」「可変かつ数値化可能な結果」「結果に対する価値の付与」「プレイヤの努力」「プレイヤと結果の繋がり」「対価交渉の可能な結末」の六つに集約します。最後の「対価交渉の可能な結末」を除けば、ひとつひとつの要素は格別オリジナリティのあるものではありません。というよりむしろ、先人たちの挙げてきた要素を丹念に咀嚼し醸成したものです。それだけに論理としては堅牢ながら、先行研究に対する批判とも無縁ではいられないのですが、氏はもとよりこれらの要素を絶対視してはいません。六要素はいわばゲームの古典文法に過ぎず、コンピュータゲームはその改変を宿命づけられている、と考えています。これは任天堂の水木潔氏がコナミ在籍時代に示した「ゲームの変容に対応できる定義」という宿題を、うまくクリアできる視点ではないかと思います。

第三に画期的な点は、ゲームはメディアではないと断言していることです。メディアでなければ何なのか? ジュール氏は大胆にも、人間の同意のもとで生み出される実体のない状態機械 (オートマトン) である、と主張しているのです。人間はもともと無自覚に、ゲームをチューリングマシンに近いものとして作り上げていた、だからゲームとコンピュータはかくも相性がいい、というわけです。いささかご都合主義じみた言説に聞こえるかもしれませんが、コンピュータに実装不可能なゲームルールが現に存在していない事実が、何よりの裏付けであるといえます (今のところテーブルトークRPGは唯一の例外ですが、氏はこれをボーダーラインケースに位置づけています)。本質的にコンピュータでプレイしえないようなゲームを作り出さなければ、氏の説を覆すことは難しいでしょう。

なお状態機械としてゲームを分析する試み自体は古くからあるもので、さかのぼればチューリングの模倣ゲームにその原点を見出すことができます。ジュール氏が真に画期的なのは、状態機械としての分析をメディア論にまで発展させたことであるといえるでしょう。ちなみにジュール氏は、昨年の論文 "Time to play" で、この点をさらに掘り下げて論じています。